来てくれたから、大丈夫




朝起きて、微熱っぽくて、やはり学校に行くのも少し怖くて、
学校に、休むと連絡した。
担任の先生は、ゆっくり休みなさい、と気遣ってくれる。
今日は金曜日だから、明日明後日と3日間休むことになる。
先生には会いたいけれど、あの道を通るのはまだ怖くて。
早く忘れなきゃ、と思うのだけれど。

(今日はおとなしく寝てよう…。)

ひとつため息をついて、ベッドに転がった。
ゆらゆら、夢に落ちかけたのを、電子音が引き留める。
ぼんやりとした意識のまま、携帯を開けば、
メールの主は朔だった。

件名:大丈夫?
本文:熱があるそうね。大丈夫?
    学校帰りに寄っていくわ。
    何か欲しいものがあれば、言ってちょうだいね。

眠い目をこすって、返信する。

件名:大丈夫です
本文:大事をとって休んだだけなので、大したことありません。
    欲しいものは、特にないです。
    ありがとうございます。

そうして、そのまま送信して、眠ってしまった。



夕方、インターホンの音で、目を覚ました。
ずっと眠っていたから、何だか身体が重い。

「は…い…。」

何とか声を出してみたら、寝起きのせいか掠れていた。

「梶原朔です。
 ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」

「いえ…今、開けますね。」

玄関まで壁伝いで歩いて、がちゃん、と鍵を開けた。
心配そうな朔の顔。

「適当に買って来たの。
 やはり辛そうね。
 ちゃんと食べてるの?」

朔は部屋に入ると、そう言う。
明るいところで見ても、顔色が悪い。

「…そういえば、何も食べてないです…。」

見透かされて苦笑しながら、弁慶が言った。

「まったく、もう。
 そんなことじゃないか、と思っていたわ。
 ほら、何でもいいから、ちゃんと食べなさい。」

朔も苦笑して、持ってきたビニール袋から、ゼリーや飲み物を出してくれた。

「……昨日、大変だったそうね?
 そんなことになるなら、いっしょに帰ればよかったわ。」

ごめんなさいね、なんて朔が言うので、ふるふる首を横に振った。
朔は、何も悪くない。

「…望美と私しか、昨日のことは知らないわ。
 先生が、広まってしまうと、あなたが学校に来づらくなるでしょう、って。」

プラスティックのスプーンを持つ手が少し震えた。
良かった、と思った。
けれど、思い出してしまう、あのわずか数分間のできごと。
悪夢のような、悪夢であればまだよかった、できごと。

「保健室の藤原先生が、助けてくれたそうね。
 先生も心配していたわ。
 移動教室のときに呼び止められて、あなたのこと聞かれたの。
 休んでる、って言ったら、心配していたわ。」

藤原先生、ということばを聞いて、どきり、とした。
机の上の紙切れは、昨日どうしてもかけられなくて、
置いたままにしてある。

「そう…ですか…。」

俯いている弁慶を優しく見つめて、朔は微笑んだ。

「もっと、私たちを頼って、弁慶さん。
 朝も、駅で待ち合わせましょう。
 ね?いいでしょう?」

優しい声に、弁慶は顔を上げる。
ゼリーを抱える弁慶の冷たい手を、朔は優しく包んで温めた。
震えが治まった。

「ありがとうございます…。」

少し、涙が滲んだ。





朔が帰ってしまうと、急に静かになってしまって、
少しだけ不安がよぎる。
時間は、まだ8時過ぎ。
机の上の紙切れが、妙に気になる。

(この時間は、もううちにいるのかな…?)

電話、してしまおうか。
不安になってかけた、って言えばいい。
でも。
番号を押し終える前に、ぱちり、携帯を閉じてしまう。

(やっぱり、だめ…!)

かけたって、何を話せばいいか、分からない。
でも、風の音が窓を揺らす音も、外の高校生達の騒ぐ声も、何だか怖い。
そんなことを何回かしていて、やっと呼び出し音までたどり着けたのに。
1回鳴るか鳴らないかのところで、やっぱり困って、切ってしまった。

(ふとんを深くかぶって、寝ればきっと大丈夫…。)

ふとんに包まって、深く深く、潜り込んで眠った。
ゆったりと意識が遠のいていった。





微かに夢が薄らいで。
階段を駆け上る音がした。
すごい速さで。
そうして。
部屋の前で足音が止まる。
インターホンは鳴らなくて、携帯が鳴った。
寝ぼけたまま電話に出ると、電話の主が息を切らしているのが分かる。

「あ!オレ、だけど…、」

「?…せんせい…?」

「着信、あったから、何回かかけ直したけど、出なくて…
 何かあったのか、って…。」

「あ……あの…。」

物音が怖くて、思わずかけてしまって、と言うと、
ヒノエがため息をついたのが分かった。
やっぱり迷惑をかけてしまったんだ、と思って、哀しくなる。
ごめんなさい、そう言おうと思ったそのとき。

「…何もなくて、よかった…。」

心底ほっとしような声がして、どきり、とした。

「あ、あの、ごめんなさい、お騒がせして…。」

「や、学校休んでる、って聞いて、
 ほんとは見舞いに行きたかったんだけどさ、
 ひとりぐらしだし、昨日の今日だから…と思って…。」

でも、ほんとに何もなくて、良かった。
ヒノエがそう言ってくれて、弁慶は思わず涙が零れそうだった。
嬉しくて。
そんなにも、心配してくれて、気にかけてくれて。
こんなにも、急いで駆けつけてくれて。
胸がいっぱいになってしまって、つい黙ってしまう。

「…だいじょうぶ?」

急に声がしなくなって、不安そうにヒノエが言った。

「はい…大丈夫、です。
 先生が、来てくれたから、大丈夫です…。」

両手で大切に携帯を持って、そっと、玄関まで歩いた。
のぞきこめば、赤い髪が見える。

「熱とかは?」

「たいしたことないです。大丈夫ですよ。」

「ホント?」

「ほんとう、です。」

「ホントに?」

「ほんとう、ですよ。」

あまりにしつこく聞いてくるから、思わずくすくす笑ってしまった。

「大丈夫なら、よかった。
 また明日、こっちから電話するよ。」

今日みたいに、呼び出し音だけで切られたら、
たまらないからね、とヒノエが笑った。
すみません、と、電話なのに思わず頭を下げて言ってしまう。

「大丈夫そうだから、とりあえず帰るね?
 ここで話してると、近所迷惑だろうしさ。」

弁慶は、少し慌てた。
せっかく、来てくれたのに。

「あ、あの…!」

こんな、パジャマだし、髪の毛もきっと解れてしまっているだろうけれど。
ちゃんと、先生の顔が見たい。
がちゃん、と鍵を開けて、ドアを開いた。
そっと10cmくらいの隙間から顔を出すと、
ヒノエが驚いた顔をしている。

「…おやすみ、なさい…先生…。」

「……おやすみ、藤原サン。」

いつもの優しい笑顔だった。
ほっとする。
ぱちん、と携帯を閉じて、通話を終わりにした。
そうして、またドアを閉めて、鍵をかけた。



明日の電話、待っていてもいいですか?
携帯を抱きしめて、そっと呟く。





―先生が、急に近くに感じた。
 先生の存在が、とても大きく感じた。