ふたり、初めての




2月14日。
弁慶は、いつもより少し早く目が覚めた。
朝ごはん代わりに、ヨーグルトをひとつだけ食べて、
念入りに髪を梳いた。
綺麗にきっちり編んで、ひといきつく。

(おかしいとこ、ないかな…?)

髪も制服もいつも通りなのだけれど、
今日は特別だから。
そうやって、鏡の前で過ごしていたら、時間がなくなってしまって、
あわてて家を飛び出した。



いつも乗る電車の中も、落ち着きがなくて、
女子生徒も男子生徒もそわそわしていた。

(みんな、チョコレートのこと、気にしてるんだ…。)

今年になるまで、そんなこと、気づきもしなかった。
父親にあげて、終わり。
中学校では、お菓子の持ち込みもできなかったから。
なんてことのない、1日だった。
それが、こんなにもどきどきする、特別な日になるなんて、
去年の自分には思いもかけなかった。



駅の改札。
望美は大きな紙袋を片手に、手を振ってきた。
とても目立つので、朔が苦笑している。
弁慶は、くす、と笑った。

「―おはようございます。」

「おはよう、弁慶さん!
 あれ!?弁慶さん、チョコは?」

弁慶は、少し照れながら、バッグを指さした。

「…中に、入ってます…。」

「…そっか。」

くす、と望美と朔が笑った。

「よし、行こ!」

そうして、望美の紙袋がかさかさ音を立てるなか、
3人で学校に向けて歩き出した。



学校の中は、さらに騒がしかった。
望美は、紙袋から、ふたりの分のチョコレートを出して渡す。

「まずはふたりの分ね!
 朔の手作りチョコはー?!」

そう言って急かすので、朔もバッグから出した。

「もう、お昼にでも出そうと思ったのに、仕方がないわね。
 はい、望美。
 これは弁慶さんの分よ。」

「…あ、ありがとうございます、望美さん、朔さん…。」

弁慶は、慌てた。
さすがに父親とヒノエの分で予算オーバーで、
ふたりの分までは用意できなかったのだ。

「ごめんなさい、ふたりの分…、あの……、」

弁慶が口ごもると、察したように、望美がにこっと笑った。
朔も優しく微笑んでいる。

「あ、私、あったかいココアがいいなー!
 お昼に飲みたいー!」

「そうね、私も、ココアが飲みたいわ。」

弁慶は、ほっとして、笑顔で頷く。

「は、はい…お昼に買ってきます。」

「うん。ありがとう!」

ふたりの優しさにほっとしながら、
弁慶は、チョコレートの入ったバッグをそっと大切に置いた。



昼休み。
昼ごはんの前に、ココアを買いに、購買に急いだ。
保健室の近くを通りかかると、案の定、女子生徒たちがいる。
きゃらきゃら、騒がしくて、何を言っているのかまでは聞こえないけれど。
間違いなく、チョコレートを渡そうとしているんだろう、そう思えば、
少し切ない。

(やっぱり、放課後、渡しに行こう…。)

熱いココアが冷めないように。
保健室の近くを駆け抜けた。



午後の授業、落ち着かなかった。
どうやって渡せばいいのか、考えてしまって。
それに、この分だと、放課後の時間さえ危うい。

(渡す時間さえなかったら、どうしよう…。)

思わず、何度もノートを取る手が止まったけれど、
気を持ち直して、長い長い授業を乗り切った。



ついに、放課後。
どきどきしながら、立ち上がると、望美がぎゅっと手を握った。

「―渡しに行くの?」

小声でそう問われて、こくんと頷く。
朔も、さらに手を重ねた。

「健闘を祈る!」

望美はそう言って笑うと、朔もがんばってねと笑った。



保健室までの道が、何だか遠いような近いような
不思議な感覚だった。
騒がしい声が、駆け抜けて、弁慶を追い越していく。

「―藤原先生、受け取ってくれるかなあ?」

「ね、彼女とか、いるのかな?
 いなかったらさ、告白、しちゃおうか!?」

女子生徒たちの声は、本当にはしゃいでいて。
弁慶の足が、少しだけ、止まった。

(こくはく……。)

チョコレートを渡すだけ、じゃなくて、告白。
それだって、考えられることなのに。
思いもしなかった。

(―他のひとのを受け取ってても、渡す、って決めてたのに…。)

早くもくじけてしまいそうな気持ち。
唇を少しだけ噛みしめて、ゆっくりとまた歩き出した。



保健室の前には、たくさん女子生徒たちがいた。
どうやら、先生は保健室にいるようだけれど、ドアは開いたまま、
生徒たちが溢れている。

(先生が、人気があるってことくらい、分かってたけど…でも……。)

まさか、ここまでとは。
姿も見えない、渡すこともできそうにない。
話すこともできそうにない。

(―仕方ない、ですよね…。
 先生は、やっぱり、みんなの先生、だから……。)

いつもの放課後の時間さえ、なくて。
いっしょに過ごすことさえ、できなくて。
弁慶は、少しだけ立ち尽くしていたけれど、しばらくして歩き始めた。

(―明日、渡そう……。)

本当は、やっぱり、当日に渡したかった。
渡せないよりは、過ぎてしまっても渡せる方がいい、とは思うけれど。
けれど足取りは重くて。
とぼとぼ、と駅に向かい、ひとりで家に帰った。
日が暮れる前にこうやって帰るのは、久しぶりだった。
いつも、放課後はいっしょに過ごしていたから。





家に着いてしまって、深くため息をつく。
チョコレートの入ったバッグを置いて、制服のスカーフを解いた。
そのとき。
携帯が着信を告げた。
『藤原先生』の文字。

「…も、もしもし…?」

「…藤原サン?」

どき、とした。
やっと聞けた、先生の声。

「…はい。」

「今、ドコ?」

「今、は………家、です…。」

少しだけ、目を伏せる。

「家、か…。
 迎えに行くから……今から、逢える?」

逢えるということばに、ぱあ、と気持ちが明るくなった。
逢いたい。

「はい……!」

どきどきしながら、携帯を握る。

「暗くなってきて危ないから…着替えて、来れる?」

「はい…!」

慌てて、クローゼットの方を見る。

「ん、良かった。
 じゃあ、今からそっち向かうから、用意してて?」

「はい、分かりました…!」

「うん、じゃあ、あとでね?」

そう言って、電話が終わる。
諦めていた気持ちが、もう一度渡そうという気持ちになって。
弁慶はバッグからそっとチョコレートを出した。
買ったときの紙袋に入れて、ベッドの上に置く。

(何、着よう……?)

クローゼットから、この間買った服を引っ張り出す。
春物の、ふんわりとした七分袖の、白いワンピース。
まだ少し寒いから、中に長袖を着て、コートも羽織った。
ためらいながら、髪も解いた。
クリスマスの日、かわいい、って言ってくれたから。

(ブレスレット……。)

大切にしまっていた、ブレスレットを手にとって、
どきどきして震える手で、なんとかつける。
ちょうどそのとき、携帯が鳴った。
ヒノエだった。

「せ、先生…?」

「ん、今、下についたんだけど、準備できた?」

「はい…今、行きます…!」

「うん、待ってる。」

学校のバッグの中身を小さなバッグに入れなおして、
紙袋も抱えた。
慌てて部屋を飛び出せば、綺麗な夕焼けが見えた。
先生に、逢える。



エレベーターから飛び出して、玄関に行けば、
ヒノエが車から降りて待っていた。
弁慶に気づくと、ひらり、と手を振ってくる。
ひとつ、ぺこ、と頭を下げた。
肩から、髪がこぼれ落ちる。

「―お待たせしました…。」

「や、また呼び出して、ゴメンね。」

助手席のドアを開けてくれて、弁慶は、助手席に座った。
ヒノエも運転席に座る。

「―髪、下ろしたんだ…可愛い。」

シートベルトを締めていると、ヒノエが間近で見つめていて、
思わずどきっとしてしまう。

「…あ、ありがとう…ございます…。」

「ん。
 じゃあ、行こうか。」

ヒノエもシートベルトをして、車は走り出した。
どうやら、ヒノエの家のほうに向かっているらしかった。
少し暮れかけた街並みには、電灯が灯り始めていて、
ヒノエの澄んだ目がますます綺麗に見える。
それに、横顔も、かっこよくて。
思わずじ、っと見ていれば、車が信号で止まったとき、
ヒノエが振り向いた。

「―どうかした?」

「い、いえ…。」

かあ、と頬を染めて俯けば、ヒノエはひとつくす、と笑った。

「―もうすぐ、着くよ。」

ヒノエのことばに、少し顔を上げると、優しい眼差しとかち合って、
思わずまた目を伏せた。

(―耳のそばに、心臓があるみたい…。)

それくらい、どきどきしていた。
思わず紙袋を抱きしめれば、かさり、と花飾りが音を立てた。



急に、車が止まって、顔を上げると公園だった。
それは、あの、公園。

「―ここ……。」

「そう、クリスマスイブのとき来た公園、だよ。
 さ、降りて。」

どきどき、と鼓動がまた速くなる。
ドアを開けてもらって外に出れば、赤い夕日が地平線の近くで
揺れていた。
ひゅ、と抜ける風に肩を震わせれば、
ヒノエがそっと自分のマフラーを巻いてくれた。
顔が近くて、また顔が赤くなる。

「寒いかな?
 今あったかいの買ってくるよ。」

そう言って、ヒノエはすぐそばの自動販売機に走っていった。
弁慶は、近くのブランコに座る。
きい、と音が鳴った。

(ここで、好き、って言ってもらったんだ…。)

ひとつ、漕ぐ。
冷たいブランコの鎖が、手の温もりを奪うのに、
そんなに寒くは感じなくて。
また、ひとつ、漕ぐ。

「―お待たせ。
 はい、ミルクティ。」

「ありがとうございます…。」

ヒノエも、横のブランコに座る。
不規則に、きい、と金属音が響いた。

「―夕日、綺麗ですね…。」

弁慶はひとつ息を吐いた。
まだ、少し白い。
冷たい手を温めるように、そっと、ミルクティを両手で持つ弁慶を、
ヒノエは、見守るように見つめていた。

「―先、生………?」

「ん?何……?」

ブランコごと、弁慶の方を向けば、弁慶は目を伏せていた。
長い睫の先が、白い頬が、ほのかに夕日の赤に染まる。

「―きっと、たくさんもらったと、思うんですけど……、」

弁慶は、手首にかけていた紙袋を、膝の上に載せて、
ぎゅ、と抱きしめる。
きらり、ブレスレットが街灯に照らされて光った。
手が、戸惑いながら、何度も持ち手を探る。

「―チョコレートなら、もらってないよ?」

「え…っ?」

ずっと逸らしていた目を、弁慶は思わずヒノエに向けた。

「―やっと、こっち見てくれたね。」

優しい眼差しに、またぱっと目を伏せる。

「どう、して…ですか…?」

「どうして、って………聞くんだ?」

ヒノエは少しだけ、苦笑する。

「―アンタだけ、アンタの気持ちだけ、あればいい…から。」

弁慶は思わず、紙袋の中身に視線を落とす。
自分の気持ち。

「―じゃあ、これは、受け取ってくれますか…?
 先生への気持ち……受け取って、くれますか…?」

紙袋に視線を落としたままの弁慶に、ヒノエはひとつ笑って。
ブランコを降りた。
無人のブランコが揺れて、きいきい、音を立てる。

「―当たり前、だろ?」

弁慶は、紙袋をそっと差し出した。
顔は伏せたまま。
すっかり日の暮れた公園には、街灯の明かりだけ。

「開けてみても、いい?」

弁慶は、こくん、と頷く。
視線は、何度も足元を彷徨う。
ヒノエがかさかさ、丁寧に包みを開けて、箱を開けた。
花のかたちの愛らしいチョコレートに、笑みを零す。

「―可愛いね。
 花の砂糖漬けが入ってるんだ…?」

弁慶は、少しだけ、顔を上げた。

「はい……。
 花の形なんて、ちょっと子どもっぽいかな、とも思ったんですけど…。」

不安げな声に、ヒノエは優しく微笑んだ。

「や、そんなことないよ。
 じゃあ、立ったままで行儀悪いけど、いただこうかな?」

「どうぞ……。」

ヒノエはひとつ、バラの形のチョコレートを手にとって、口に運んだ。
弁慶は、どきどきしながら、反応を待つ。
食べて選んだわけじゃないから、どんな味か不安でもあって。

「―どう、ですか…?」

ヒノエは、きちんと飲み込んでから、弁慶に答えた。

「おいしいよ。
 甘いけど、甘すぎないし…上品な味だね。」

ヒノエは、もうひとつ、すみれの形のチョコレートも口に運ぶ。

「うん、おいしい。」

弁慶の顔が、ぱあ、と明るくなった。
嬉しそうに微笑んで、ひとつ、ブランコを揺らす。
あと残りひとつになったところで、ヒノエは弁慶に微笑みかけた。

「―食べてみる?」

思わず、いいんですか?と言いそうになってしまった。
食べてみたかった気持ちもあって。

「え、でも……あの、先生にあげたもの、ですし…。」

「大丈夫、気持ちはしっかり受け取ってるからさ。
 ほら、口開けて?」

でも、と戸惑っているうちに、口の前に差し出されて、
思わず小さく口を開けた。
ころん、と口の中に転がして、ひとつ噛むと、
砂糖漬けのバラが出てきて、ほのかに香った。
甘いチョコレートが、口の中に広がる。

「―おいしい、ですね。」

弁慶は微笑む。
またひとつ、ゆっくりとブランコを揺らして。
小さく、弁慶は話し出す。

「―昼休みも、放課後も…たくさん、女の子たちがいたでしょう…?」

「ん、まあ、ね…。」

ヒノエは少しだけ、苦笑した。
ブランコから少し見上げる形で、弁慶は続ける。

「あの女の子たちも…同じ気持ちで、チョコを選んで
 先生に渡そうとしてるんだ、って思ったら………
 受け取らないでほしい、って…どこかで思ってしまって……。」

弁慶は少しだけ、目を伏せた。

「あんな調子じゃ、今日はもう渡せないかも、って……
 明日でもいいや、って諦めて……いえ、少し拗ねてたんです…。」

ヒノエは、弁慶のことばを、ただじっと聴いている。

「―今日、渡せて、よかったです……。」

目を伏せたまま、弁慶は少し微笑んだ。

「―あのなかの、誰よりも………
 先生のこと、好き…です………。」

本当に小さな声だった。
こんな静かな公園でなければ、聞こえないくらい。
ヒノエは思わず、ブランコごと、弁慶を抱きしめた。
きいん、と金属音が響く。
ヒノエの手から、チョコレートの空き箱がこぼれ落ちて、足元に転がった。



世界にふたりだけになってしまったみたいに、静かに時間が流れていく。
ヒノエの手が、ブランコの鎖を握る弁慶の手に重なって。
温もりが、じんわりと指先に染みる。

「―誰よりも、好きだよ。」

間近で見つめられて、深い声でそう言われて。
弁慶は息をするのを忘れそうになっていた。
手から、ミルクティがこぼれ落ちて、それにも気づかなくて。
ヒノエの肩越しに、星がきらきら、瞬いていた。
ヒノエの手が、弁慶の頬に、そっと触れる。

「せん………、」

先生、とは言えなかった。
優しく、ふわり、くちびるが重なっていて。
かすかに、ヒノエの香水の香りがした。
そして、チョコレートの甘い香りも。
ゆったりと目を閉じて、その香りを受け止める。



それは一瞬のようでも、永遠のようでもあって。
温もりが離れて、弁慶は、静かに目を開けた。
ヒノエは、少し目を伏せて、そっと身を離した。

「―寒いから、車に戻ろうか。」

「―は、い……。」

やっと出した声は、掠れていた。
ヒノエは、転がしてしまった空き箱や缶を拾い上げて、片付ける。
弁慶は、夢見心地で、ぼんやりと見ていた。

「―行こ?」

ブランコに座り込んだままの弁慶に、手を差し伸べて、
ヒノエは微笑んだ。
弁慶は、そっと手を重ねて、立ち上がる。
きら、とブレスレットが光って、手首を滑った。

(―キ…ス……?)

弁慶は、空いた手で、くちびるに触れた。
まだ温もりも、感覚も残ってる。
考えた途端、顔が熱くなるのを感じた。
急に、鼓動が耳に響いて。

(―先生と、キス、したんだ…。)

手を引いてくれるヒノエは、何も言わないけれど、
その手がひどく優しい。
きっと自分の手は震えてしまっているだろう。
それにきっと熱くて。

(―どうしよう………。)

どうしよう、も何もないのだけれど。
ひどく戸惑いながら、車の助手席に座った。





帰り道は、よく覚えていない。
先生が好きと言ってくれた、あのときと同じように。
いつまでも、チョコレートの香りが消えなくて。
気づいたら自分の部屋で、座り込んでいた。

(―先生が、好き………。)

膝を抱えた。
今夜も、眠れそうにない。





きっと、今日のことは、いつまでも、忘れない。
好きということばをくれた、あの公園。
街灯ひとつだけ灯る、仄暗い日暮れ時。
渡る風の、冷たさ。
先生の手の温もり。
香水のかすかな香り。
チョコレートの香り。
誰より好きな先生と、キスしたこと。 



ふたり、初めての、キス。 





―初めてのキスが、先生と、で良かった。