いつもと少しだけ違う、放課後




放課後。
こんこん、控えめなノックがあれば、
それは嬉しい来客。



ヒノエが貸してくれた本を抱えて、
弁慶はいつもどおり控えめにノックする。
こんこん。
けれど、返事がない。
ドアが開く気配もなくて。
首を傾げながら、そっと戸を開けて中に入った。

「先生…?」

いつも座ってる椅子には、白衣がかけられていて。
やりかけの仕事が机に散らばっている。
さっきまでそこにいた、という様子で。

(…?どこに行ったんだろう?)

またひとり首を傾げていると、
するり、仔猫が足にじゃれついてくる。
弁慶は、ヒノエに返すつもりだった本を、机にそっと置いた。
にい、と小さく鳴く仔猫を抱き上げてヒノエを探す。
窓から外を覗き込んだりするけれど、やはりいない。
仔猫を放しているんだから、いないわけはないのだけれど。

「んー……。」

微かに声がして、弁慶は声のほうを覗き込んだ。

(こんなところに…。)

ベッドの上、気持ち良さそうに眠るヒノエがいた。
にいにい鳴いてる仔猫を宥めて、そっと近くに行った。

(寝顔、幼い…。)

思わず笑顔になって、その寝顔を眺める。
かわいい寝顔。
白衣を脱いで寝そべっているということは、
最初から寝る気だったということだろう。

(何か掛けないと、風邪引いちゃうかな…。)

弁慶は、仔猫を抱えたまま、
椅子にかかった白衣をヒノエに掛けた。

(起こさないように…。)

そっと、そっと、静かに。
ヒノエの肩に掛けたところで、ぱさり、弁慶の肩からみつあみが零れた。
起こしてしまうと、はっとした瞬間、それを掴む手がある。

「…!」

「…つかまえた。」

いつもどおり、にや、とヒノエが笑っていて、
弁慶は訳も分からず赤面した。

「な…起きてたんですか…?!」

みつあみを掴まえられたまま、動けないでいると、
ヒノエはひとつ欠伸をした。

「いま、おきたとこ。」

「そうだったんですか…。」

欠伸のあとのことばは、何だか幼くて。
思わず、くす、と笑みがこぼれてしまう。

「添い寝してくれても、良かったんだけど?」

「何言って…!」

また真っ赤になる弁慶に、今度はヒノエがくすっと笑った。

「ふふ、冗談、だよ。
 まあ、半分以上本気、だけどね?」

みつあみに指を絡めて、ヒノエはじっと弁慶のはちみつ色の目を見つめる。
視線に耐えられなくなって、弁慶は目線を逸らした。
顔から火が出る、とはこのことだ、と思った。

「また、そうやってからかって…!
 先生のそういうとこは嫌いです!」

頬は赤いままで、弁慶は、くちびるを噛んだ。
違う。
こんなことを言うつもりなんてなかったのに。
仔猫を抱く手が微かに震えた。



「…ふーん…。」

ヒノエの声。
怒ったのかな、どうしよう。
弁慶がそんなことを考えていると、
ヒノエはまたみつあみをそっと手に取った。

「『そういうとこは嫌い』、ねえ…。」

怖くて、弁慶は、顔を背けたまま目を閉じた。

「…そういうとこ、『は』、って言ったけど、
 『そういうとこ以外は好き』ってことかな?」

「え……?」

目を開けて、顔を上げると、ヒノエは楽しそうに笑っていた。

「…違うの?」

みつあみにくちびるを寄せて、ヒノエはじっと弁慶を見つめた。
ますます頬が赤くなってしまう。
そう、だけど。
とてもそんなこと言えない。
そんな、明らかに肯定している様子の弁慶に、
今度はヒノエが少し戸惑った。
からかうつもりだったのに。

(そんな顔してさ…。)

こんなにも、好き、と言ってくれてるような顔。
かわいすぎるから。
素直すぎるから。
抱きしめたい気持ちも、今は何とか抑えて。

「あの、さ…、」

弁慶の腕の中の仔猫を、さら、と撫でた。

「…アンタの、そういうすぐ赤くなるとことか、
 素直でかわいいと思うよ。」

優しく微笑んで。

「…そういうとこ、オレ、好きなんだよね。」

そういうところ全部含めて、好きなんだ。
本当はそこまで言いたかったけれど、
今はきっと困らせるだけだから。
弁慶は、きょとんとしていたけれど、
好き、ということばに、また俯いた。
嬉しくて、恥ずかしくて。
小さく、小さく、そっとことばを紡ぐ。

「…あの……先生の…優しいとこ…好き、です……。」

仔猫に隠れて言ったことばは、ヒノエにも届いたようで。
今度は、ヒノエが微かに赤面した。
髪をかきあげて、照れかくし。
沈黙が気まずいから。

「…ん、ありがと。」

小さく言って、弁慶の髪を撫でた。



「……何か飲む?」

「…はい。」

「いつもの、ミルクティ?」

「はい。」

そうして、いつもと少しだけ違う、放課後。



―初めての『好き』ということばが、ふたりの心に響いていた。