仔猫の目の色、はちみつ色




先ほどまで降っていた雨が上がり、
中庭の木々がきらきらしていた。
図書室に行こうと、弁慶はまたあの渡り廊下を通り、校舎に入ると。
足元で、にい、と仔猫が鳴いた。

(なんで、校舎のなかに…?)

辺りをうかがうと、とりあえず自分しかいないようなので、
弁慶はそっと抱きかかえて、少しだけ戸の開いている保健室をノックした。

「…どーぞー。」

戸に背を向けたまま、保健室の先生は事務的な声を返した。
おそるおそる、弁慶は声をかける。

「あの…失礼します。」

そう言ってみれば、くるり、と先生が振り返った。
どうやら、あのとき保健室の先生だと言っていたことは、本当だったらしい。
間違いなく、あのときの赤い髪のひとだった。
弁慶の手の中の仔猫を見て、驚いたような顔をしていた。

「…アレ?そいつ、逃げてた?」

「はい。」

ヒノエは、仔猫を入れていたらしい、ダンボールの箱を一瞬見ると、
確かにいなかったので、苦笑いをした。
手の中で大人しくしている仔猫を、弁慶はそっと下ろした。

「ありがと。
 見つかったらヤバかったから、助かったよ。」

「いえ、では…。」

ぺこ、と頭を下げて、弁慶が出ようとすると。

「待ってよ、お礼するから。
 とりあえず、扉閉めてもらえる?」

「え、あの、お礼なんて…。」

弁慶は、ふるふる首を横に振った。

「いいから。ほら。」

ヒノエは立ち上がって、自分で戸を閉めた。
にいにい、仔猫が寂しがってるように鳴く。

「こいつも、もっと遊んで、って言ってるし。」

ね?、と念を押されて。
弁慶は少し躊躇いながら、ひとつ、頷いた。



仔猫を膝で遊ばせて、弁慶が待っていると、
ヒノエは薬品棚からマグカップをふたつ出した。

「コーヒーと紅茶、どっち?」

「え、じゃあ、紅茶…で…。」

戸惑いながらも答えると、ヒノエは優しく笑った。
思わず、どきりとする。

「ん、紅茶、ね。」

ヒノエは、ティーバッグを取り出して、電気ポットの湯を注いだ。
自分のカップには、インスタントコーヒーの粉を入れている。

「あ、ミルクは?」

「ほしい、です…。」

「砂糖も、かな?」

「あ、はい…。」

まるで喫茶店にいるように尋ねられて、思わず答えて。
あっという間に、出来上がったミルクティーを手渡された。

「はい、どーぞ。」

「ありがとう、ございます…。」

「クッキーもよかったら食べて。」

弁慶の膝で遊んでいた仔猫が、食べ物の匂いにつられて、
ぴくっと立ち上がる。
ヒノエは慌てて、弁慶の膝にいた仔猫をつまみあげた。

「こら、暴れないの。
 おまえは、こっち。」

小さな皿に、ミルクを注いでやって、床に下ろした。
仔猫は、おなかが空いていたらしく、途端ミルクに夢中になる。
その様子を微笑ましく見た後、弁慶は、
おそるおそるミルクティーを飲んだ。
ミルクのおかげで、温度で緩んでちょうどいい。
ひとくち飲んで。

「…保健室の先生、って、
 こんなに優雅に過ごしてるんですか?」

思ったことを素朴に聞いてみれば、ヒノエは笑った。

「や、クッキーは今日たまたまお土産にもらったやつ。
 コーヒーとかは別に…先生方みんなそうだし。」

「そうなんですか?」

「みんな職員室にいろいろと隠してるから、
 今度行ったら探してみな?」

くすくす、楽しそうに笑って、ヒノエは言う。
弁慶も思わず笑った。
他愛のない話をして。
たまに重なる視線に、どきっとして。
そうして弁慶は、目を逸らす。
ヒノエが、ふ、と笑った。

「…目の色、こいつと同じ、だね。」

コーヒーを飲み終えて、ヒノエはマグカップを置くと、
床で遊ばせていた仔猫を拾い上げる。
弁慶の目をじい、と見て、また仔猫を見る。

「きれいな、はちみつ色。
 髪の毛も、そっくり。」

みつあみにそっと触れて、ヒノエが言う。
どうしていいのか分からなくて、弁慶は、視線を惑わせた。

「こいつ、『藤原サン』、って呼ぼうかな?」

そう言いながら、仔猫に口づけるから、弁慶は何だか恥ずかしくて、
もう中身のないマグカップばかり見ていた。

「か、からかわないで、ください…。」

弱弱しく言えば、ヒノエは、にやっと笑った。
恥ずかしくて、何だか悔しくて、頬が熱くて。

「あの、ごちそう、さま、でした…!」

そう言って、マグカップを机に置いて、逃げ出そうとする。
ヒノエは、そのみつあみをくい、っと引いた。

「……!」

それほど痛くはなかったけれど、驚きで声が出なかった。
ヒノエは、すぐにみつあみから手を放す。

「また、遊びに来てね?」

仔猫を持ち上げて、まるで仔猫がしゃべっているかのようにして。
ヒノエは、仔猫の影でいたずらっぽく笑う。
弁慶は、鏡を見なくても、さらに顔が赤くなったのが分かって、
見えないように頭を下げた。

「…し、失礼します…!」

本当に逃げるように、弁慶が立ち去ると、
ヒノエは、くすっと笑った。

「さて、また遊びに来てくれるかな。
 ねえ、『藤原サン』?」

これから楽しくなりそうだ、とヒノエはひとり呟いた。
仔猫が、ひとつ、にい、と鳴いた。





図書室への階段を一気に駆け上ると、弾んだ呼吸を抑えようと、
弁慶は壁によりかかって休んだ。

(やっぱり、あのひと、苦手です……!)

触れられたみつあみが、何だか気になって仕方なかった。
思い出してしまう。
ひととき通った、真っ直ぐな視線。
宝石みたいな、綺麗な紅の目。
仔猫に向ける、優しい目。

(絶対、からかって遊んでるんだ…!)

そう思いながらも、何だか憎めなくて、悔しい。
保健室には、できるだけ近寄らないようにしよう、と心に決めて。
けれど、可愛い仔猫も気になって。

(…どうしたらいいんだろう…。)

座り込んで考えても、答えなんか出なかった。



―きっとまた、仔猫には会いに行ってしまうだろうけれど、
 あのひととは、できるだけ関わらないようにしよう。



結論にもならない結論を強引に探し出して、
忘れるために本をたくさん借りて、家に帰った。
そんなことしても、忘れられるわけもなかったのに。