いつか迎える、その日に




まだ、桜も蕾の、春の日。
3年生達の卒業式。



いつか迎える、その日に



弁慶は、席に着いた。
A組だから、通路を挟んでいちばん前で、教員席に程近い。
目の悪い弁慶でも見えるくらい。

(先生、まだかな…?)

思わず教員席のほうを見やる。
式が始まる少し前、具合の悪そうな生徒を連れて体育館を出たようだから、
しばらくは戻ってこないだろう。
そう考えていて、卒業生の名前が呼ばれ始めた頃。

(あ……戻ってきた…。)

ヒノエは、静かに席に着いた。
女子生徒が、ちらちら目線を向けて、微かにざわめく。

(いつもと…違う……。)

シャツのボタンをきっちり留めて、ネクタイを締めて。
姿勢を正して、凛々しい表情で。
先輩たちの卒業式なんだから、ちゃんと集中しなきゃ、って思うのに、
どきどきしてしまう。
そしてまた、気づいてしまうのだった。
ヒノエが、女子生徒から視線を浴びていることに。

(先生が人気ある、なんて分かってたはずなのにな…。)

こっちを見て欲しい。
そう、思って。
目を伏せたあと、ゆっくりとヒノエに視線を向ける。



ほんの刹那。
奇跡みたいに、ヒノエがこちらに向いた。
時間が止まったみたいに、感じた。
ヒノエと視線が通って。
柔らかく微笑まれて。
ゆっくりと、ヒノエの視線が前に戻る。

(―ちゃんと、集中しなきゃ…。)

弁慶は、どきどきしながら前を向いた。
次々と名前を呼ばれて立ち上がる先輩たちの背中を、
見ているような見ていないような曖昧な視線。
深く息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。



式が終わりに差し掛かり、心を込めて歌った。
退場していく先輩たちを見送る。
ところが、ぴたり、と退場の列が止まった。

「ありがとー!!
 あとはよろしく!」

そう、叫んで。
先輩たちが、ポケットから、お菓子や紙ふぶきをばらまく。
2年生の先輩たちは分かっているようで、わいわい騒いでいる。
1年生たちは、ぽかんとしながら、飛んでくるお菓子を受け止めるだけだ。
弁慶も、飛んできた飴を思わず受け止めた。
卒業生たちがすっかり退場してしまう頃には、弁慶の手の中には、
ころんとふたつの飴が残った。



ホームルームも終わって、いつもどおり、保健室に歩き出す。
ポケットにふたつの飴を忍ばせて。
中庭の桜の木の蕾が、ほんのり染まっているのを横目に、
渡り廊下を抜ける。
けれど、保健室には『不在』の札がかかっていて、ヒノエはいなかった。

(―会議、かな…?)

保健室の前で待っているのも何だか落ち着かないから、
図書室に行こうと階段を上りかけたとき、ヒノエの声がして、
思わず踊り場で足を止めた。

「―藤原先生、最後だから、先生と写真撮りたいんです…。
 駄目ですか?」

姿は、見えないけれど。
どうやら、卒業生の女子生徒たちのようだった。
弁慶は、思わず息を潜めてしまう。

「―ん。オレでいいなら、構わないよ。」

急に、鼓動が騒いだ。
やだ、撮らないで。
そんなふうに、もやもや嫌な気持ちが浮かんでしまって。
軽く唇を噛んだ。
姿は見えないのに、声に背を向けて。

「じゃあ、ふたり、並んで……、」

友人らしい声に、ヒノエが珍しく気まずそうな声を出した。

「―あ、ふたりで、はゴメンね?
 大切なひとがいるから、さ。」

ヒノエの優しい声が聞こえてきて、振り返った。
弁慶はほのかに頬を赤らめる。

「え……あ、彼女さん…ですか…?」

「そ。泣かせたくないからさ。」

女子生徒の声が、少しだけ沈んでいる。
けれど、他の友人に励まされたのか、
勇気を絞った声で言う。

「ふたりでなくても、いいです…!
 じゃあ、この子と3人で…お願いします!」

「―ん。分かった。」

フラッシュが光った。
微かな残像。

「卒業おめでとう。
 がんばってね。」

「ありがとうございますー!!」

元気な声が遠ざかって行った。



ほっと息をつく。
階段を下りようと、階段に足を向けると。

「―待たせたみたいだね、ゴメン。」

ヒノエが下で待っていた。
気づいていたんだ、と気まずくて目を逸らす。

「……気づいてたんですか…?」

ヒノエは、くす、と笑った。

「階段上るの見えて、声かけようと思ってたトコだったからね。」

「そう、だったんですか……。」

弁慶がなかなか下りて来ないから、ヒノエが階段を上ってきた。

「ほら、お手をどうぞ?」

そうして、すっと王子様がするみたいに、手を差し出されて、
弁慶は目を泳がせて真っ赤になった。

「ひ、ひとりで、下りられます…。」

「そ?残念。」

ヒノエには、予想通りの反応だったようで、
くすくす笑われてしまった。

「―待ってたんだ。
 今日はいつもより長く、近くに居たのにさ、
 全然話せなかったから。」

ほら、と視線で促されて、静かに階段を下りていく。



いつもどおり、保健室に入ると、ヒノエは上着を脱いで、
ひらり、白衣を羽織る。

「あー…やっぱ、こっちのが落ち着くね。
 着慣れないもん着て疲れたよ。」

苦笑するヒノエに、弁慶は思わずくす、と笑う。
ネクタイは締めたままだから、やっぱりいつもと違うな、なんて思いながら。

「先生の、スーツ姿、初めて見ました…。
 あの………すてき、でしたよ…?」

ちょっと照れながら、弁慶は小さく言った。
ヒノエは、思わず驚いた顔をして、緩めかけたネクタイを直す。

「―ありがと。」

柔らかい笑顔を向けられて、弁慶は俯く。



からから、窓を開けて、ヒノエが外を眺める。
吹き込んでくるカーテン。
ほのか春の風に、目を細めながら、
ふたり出逢った中庭を見てる。

「―もうすぐ、2年生だね。」

「え…?あ、はい……。」

ヒノエの突然のことばに、弁慶はきょとんとした顔をした。

「あと、2年経ったら…、」

「…はい…?」

振り返ったヒノエが、そっと微笑んで、
ことばを切った。
今は、まだいい。
そう小さく言ったのが聞こえたけれど。

「…あの…?」

何を言いたかったのか、気になって、問うけれど。
ヒノエは優しい笑顔で、なんでもないよ、と言うだけだ。

「―2年生になってもよろしく、藤原サン。」

改まって、そう、右手が差し出される。
驚いたけれど、ためらいながら、手を重ねた。

「―よろしくお願いします、藤原先生。」

ふたり、目を合わせて笑う。



そうだ、なんてヒノエが思いついた顔をした。
弁慶は、首を傾げる。

「―1年生の卒業式、しようか?」

「『1年生の卒業式』…ですか?」

「そ。1年生を卒業して2年生になるだろ?
 だから、その記念。」

ヒノエは、携帯を取り出して、笑った。

「―藤原サン。
 記念に、オレと、写真撮ってくれませんか?」

「え…?」

かあ、と顔が熱くなる。
困って、躊躇って、戸惑って、ことばがなかなか出てこない。

「藤原サンと撮った写真ないし、ね?」

ダメ?、なんて間近に見つめられて、ダメだなんて言えるわけがない。
先生との写真、自分だって欲しいから。

「―先生が、構わないなら………、」

お願いします、と目を伏せて言った。
ヒノエは、嬉しそうに笑った。
ぎゅ、と肩を抱き寄せられて、ヒノエが携帯を構える。
すごく近くて、どきどきしてしまう。
電子音がして、一瞬光る。

「―はい、撮れた。
 …あ、」

「え?」

「そういえば、オレ、藤原サンのメアド知らない。
 オレのも、教えてなかったかな?」

「あ、はい……そうですね…。」

学校ではほとんど使わない携帯を、かばんから探し出して、
電話帳を見る。
ヒノエのところは、電話番号だけだった。

「じゃ、いっしょに送るから。」

赤外線で送る、と言われて、弁慶がわからなくてわたわたしていると、
ヒノエがくす、と笑った。
携帯というか、機械全般苦手なのが、きっと知られてしまっただろう。
弁慶は、恥ずかしくて、思わず顔を伏せる。

「―貸してもらってもいい?」

「すみません……お願いします…。」

そのまま、手渡すと、ヒノエが手際よく操作してくれた。
終わったよ、とすぐに渡されて、思わず感心した目で見つめてしまう。

「―見てごらん?」

そっと、携帯を開いて、写真を探す。

「あ、ありました…。」

ネクタイを締めたヒノエと自分が映ってる。
うれしくて、思わず笑顔になって顔を上げると、
ヒノエも微笑んでいた。
どき、とする。

「ホントは、待ち受けにしたいけどね。
 もったいないから。」

「もったいない…?」

弁慶は、首を傾げて、きょとんとした顔をした。
ヒノエは、またくす、と笑う。

「そ。
 こんな可愛い藤原サンを、
 他人に見せるのはもったいないから、ね?」

携帯の画面に映った弁慶に、キスするみたいに唇を寄せて、
ヒノエがそんなことを言うから、弁慶は真っ赤になって俯いてしまった。



なかなか頬の熱が冷めなくて、しばらく俯いていると、
ヒノエが、何事もなかったように切り出した。

「―そうだ。
 あと、バレンタインのお返し。」

ヒノエは、小さな包みを机の引き出しから取り出す。

「開けてごらん?
 あんまり、大したものじゃないんだけどさ…。」

ヒノエは少しだけ苦笑した。
弁慶は、そっと包みを開ける。

「―ストラップ…?」

手に取ってみると、小さな花の蕾の飾りがついている。
バラの蕾のようだった。

「そ。
 それ、本物のバラの蕾なんだって。
 バレンタイン、バラのチョコだったから、そのお返し。」

ゆらり、飾りを揺らして、弁慶は微笑んだ。
露のように小さくついたガラスのビーズがきらきら光る。

「―かわいいです…。
 ありがとうございます…。」

つけてみますね、と弁慶は、たどたどしい手つきで、
携帯にストラップをつけ始めた。
その仕草が微笑ましくて、ヒノエはじっと見守っていた。
視線を感じて、弁慶は目を上げる。

「…?何ですか?」

「や、なんでもないよ?」

「?そう、ですか…?」

うん、とヒノエは言って笑った。
できました、と嬉しそうに笑う弁慶の目が、
春の陽射しできらきら光る。



帰り、いっしょに帰ろうか、なんていうと、はにかんで頷く姿が愛しくて、
ヒノエは思わずぎゅっと抱きしめる。
そうして、心の中で、思う。








―本当は、言いたかったことがある。
 でも、今は、言わない。
 いつか迎える、その日に、きちんと伝えたいから。





帰り道は、少しとけてしまった飴を転がしながら歩いた。
逢う約束の話を、ぽつりぽつりと、しながら。