キスみたいに、甘く




かすかなキスの名残。
無意識に指でくちびるに触れてしまう。
いつまでも頬の熱が冷めなくて、それを悟られたくなくて、
少し俯き加減で、歩いた。
望美も、朔も、いつもと変わらなくて。
けれど、自分だけ変わった気がして、不安で。



授業中も、上の空でどこかぼんやりしてしまって、
頬の熱を確かめるように、手のひらを当てた。

「…藤原さん?」

突然の先生の声に、顔を上げると、
古典の先生が立っていた。

「具合悪いの?」

顔が赤いわ、と言われて。

「―保健室、行って来たら?」

「い、いえ…大丈夫、です……。」

クラス中の視線を感じるから、ますます赤くなってしまう。
説得力のない言葉だったが、保健室行きは何とか免れたようだ。

(ほ、保健室なんて……どんな顔して行けばいいんだろう…。)

集中力を保つこともなかなか難しかったけれど、
何とか午前の授業を乗り越えた。



昼休み、机を向かい合わせにして、
望美と朔といっしょにごはんを食べる。
購買で買った、お気に入りのフルーツサンド。
あったかいミルクティ。
弁慶は机の上に、そっと置いた。

「弁慶さん、ほんとに大丈夫なのー?」

望美に覗き込まれて、まだ熱いままのミルクティを
うっかり口に含む。
あまりの熱さに涙目になった。

「だ、だいじょうぶ…です…。」

ぴりぴりとするくちびるが、赤く染まった。

「―ね、昨日はどうだったの?」

「き、昨日はどうだった、って……?」

目を泳がせながら、弁慶は、フルーツサンドに隠れる。
小さくひとくち、口に運んで、甘さにほっとしたのも束の間。

「―チョコ、ちゃんと渡せた?どこで渡したの?
 どうだった?」

次から次へと、質問を重ねられて、
弁慶は思わず座ったまま後退りした。

「ちゃんと……渡しました、よ……?」

これ以上聞かないで欲しい。
頬が熱くて、言わなくても全部顔に書いてあるかもしれない。
けれど。
言ってしまったら、ほんとに熱を出してしまいそう。
望美がわくわくして、身を乗り出してくる。

「どこで?学校?!」

弁慶は、困りながら首を横に振った。

「どうだった…?」

「よ、喜んでくれた、と思います……。」

「それで?それで?!」

これ以上、なんて答えれば分からない。
キスした、なんて言えない。

「―望美、それくらいにしなさい。
 弁慶さんが困ってるわ。」

朔が、見かねて止めてくれる。
望美が大人しくなって、弁慶は、ほっとした。
朔と目が合うと、何だか見透かされた気がして、
弁慶も思わず黙ってしまった。

(…朔さんには…敵わない気がします………。)

心の中で小さく苦笑して、残りのフルーツサンドを口に運ぶ。
少しだけ冷めたミルクティが、優しくのどを通っていった。



午後の授業も、落ち着かないまま終わっていく。
いつも放課後が楽しみで仕方なくて、授業は長いのに、
どうしていいのか分からない今日ばかりは、授業が短い。
帰りのホームルームも、すぐに終わってしまって、困り果てた。

(どんな顔して、逢えばいいのかな…。)

きっと、先生はいつも通り。
自分だけ、どうしていいのか分からなくて困ってる。
逢いたい気持ちはもちろんあるのに、
困惑が、保健室に向かう気持ちを押し込める。



保健室の前に着いても、しばらく立ち尽くしていた。
やっと、とんとん、といつもより小さな音でノックをすれば、
ヒノエが中から開けてくれた。

「―いらっしゃい。」

優しい笑顔。
顔を合わせられない。

「入って?」

「は、はい……。」

促されて中に入ると、緊張が増した。
ヒノエが見られない。

「顔、赤いね。
 大丈夫?」

ふわ、と前髪を上げられた、と思ったら、ヒノエが額を重ねていた。
突然近くなったヒノエの顔に驚いて、びくりと身を震わせた途端、
椅子から落ちそうになる。

「…っ!」

ぎゅ、と目を瞑ると、予想していた衝撃はなかった。
そっと、目を開けると、やっぱりヒノエの顔が近くて。
抱きとめられていることに気づくと、また赤くなる。

「驚かせちゃったかな?
 ゴメン。」

そう言って、ヒノエはくすくす笑いながら、弁慶を椅子に座らせた。
熱はないみたいだね、なんて何てことない顔をして言われて。
弁慶は、かあ、とまた顔を赤くした。

「――はい、ミルクティ。」

そう言って、差し出されたマグカップを、そっと受け取ると、
冷えた指先にじんと熱くて。

(―先生は、どきどきしたりしないんだろうな……。)

そう考えると、少し哀しい。
自分ばかり、どきどき、してる。
自分ばかり、好き。
不意に視線がヒノエのくちびるに寄せられてしまうのを、
何とか目を伏せて誤魔化すけれど。
意識してしまったら際限なんてなくて。
ずっと、どきどきしてる。
ヒノエが何気なくコーヒーを飲む姿さえ、どきどきしてしまって、
見つめていられない。
ずっと、俯いたまま。



いつまでもミルクティが飲めなくて、マグカップを持つ手が迷っていた。
黙ったままの弁慶を、ヒノエはそっと覗きこむけれど、
俯いたその表情は見えない。

「―藤原サン?」

初めての、キスだった。
だからこそ、こんなにもどきどきして。
相手が先生だからこそ、もっとどきどきして。
こんなにも、先生が、好き。

「先生が、好き……。」

「え…?」

不意に零れたことばに、はっとして口を覆うと。
先ほどまで平然としていたヒノエが、微かだけれど照れを見せた。

「うん…ありがと。」

こんなヒノエの表情は、初めてかもしれない。
弁慶は、また赤くなる。

「―オレも、好きだよ。」

また鼓動が高鳴って、俯く。
音もなく、ふわ、とヒノエの香りがして。
額に落とされた、小さなキス。

「――ミルクティ、も1回、あっためよっか?」

ちっとも減らないまま、冷めたミルクティ。
弁慶は、ひとくち、口に含んだ。

「―いい…え…ちょうどいい、です………。」

まだ頬が熱いから。
ミルクティみたいに、早く冷めてくれればいいのに。





―下にたまった砂糖が甘く、溶け残っていた。
 初めてのキスみたいに、甘く。