移り香と、甘い香りと




街が甘い香りに満たされてる。
誕生日が終わって、ふと周りを見渡せば、
話題はバレンタイン一色。



2月12日。
誕生日を終えて、あったかい気持ちで教室に行けば、
何だかそわそわした空気に、弁慶は首を傾げた。

「朔は、手作りでしょ?
 いいなー朔の手作りチョコ!
 私も欲しいー!」

「もう、仕方ないわね…。
 作ったらあげるから、騒がないでちょうだい。」

朔と望美がそうして話しているところ、
弁慶は、そうっと、バッグを置いた。
望美が、ばっと振り返り、身を乗り出すので、
弁慶はかすかに後退り。

「あ、弁慶さんっ!
 おはよー!!」

「お、おはようございます…。」

「昨日はどうだったー?」

「え、っと……。」

真っ赤になって硬直をして、思わず左手首を押さえる。
学校だから、さすがにはずしてきたけれど、
なんだかくすぐったくて。

「まあ、それはあとでじーっくり聞くとしてー、」

(あ、あとで…じっくり……?)

弁慶が、かすかに怯えながら、望美のことばを待つ。

「弁慶さんは、バレンタイン、どうするのー?」

もちろん、先生にあげるんでしょ?
なんて、耳元で言われて。

「え……?
 あ……。」

バレンタイン、なんて考えたこともなかった。
父親以外には、今まであげたこともなかったから。
まだ何も用意してない。
考えてもいなかった様子に、望美がひとつ笑った。

「―今日、いっしょに買いに行く?」

「え、望美さんも、誰かに……?」

「ああ、私はね、部活のみんなに配るの!
 ちっちゃいのいっぱい!
 あ、朔と弁慶さんにもあげるからね!!」

「…あ、ありがとう…ございます…。」

弁慶が気圧されていると、ホームルームの予鈴が鳴った。
ほっとして、弁慶が席に座ろうとすると。

「じゃあ、放課後、ね!?」

望美が慌ててそう叫んで、弁慶は思わず頷いた。



授業中、ふと、思った。
ヒノエは、きっとたくさんもらうんだろうな、って。
たくさんもらってきたんだろうな、って。

(―受け取って、くれる…かな…。)

ヒノエは、優しいし、恋人、そう言ったのはヒノエだから。
受け取ってくれると思うけれど。
やっぱり、不安で。

(他の子のも受け取ったら、やだな…。)

そんなのことを、考えてる自分がいやだ。
ヒノエのことが好きで渡すひとは、自分以外にもきっとたくさんいて。
ヒノエは、優しいから、受け取ってしまうんじゃないか、って。
気持ちも、チョコレートも。



放課後、借りていた本を返して、いつもどおり保健室に立ち寄った。
ヒノエが、ひどく優しく微笑むから、どうしたらいいのか分からなくて、目を泳がせる。
昨日のことが、嬉しくて、でも何だか照れくさくて。

「―昨日は、ありがとう、ございました…。」

「や、オレが祝いたかっただけ、だからさ。」

嬉しいことばばかり、ヒノエはくれる。
つけてはいないブレスレットも、まるでつけてるような感覚で。
思わずまた、左手首に触れていた。

「―大切にしますね、ブレスレット……。」

「ん。」

座って、と促されたけれど。
ヒノエがミルクティをいれようとするのを、慌てて止める。

「―どうしたの?」

「き、今日は、予定があって…その、もう帰るんです…。」

ヒノエは、少し残念そうに微笑んだ。
ごめんなさい、と弁慶はひとつ礼をする。
弁慶だって、本当はヒノエといっしょにいたいけれど。
あと2日しかないから。
初めての、バレンタインだから。
ちゃんと、用意したくて。

「そっか、予定があるんだったら、仕方ないね…。
 帰り道、気をつけて?」

ヒノエは、ひとつ髪を撫でた。
弁慶は、かあ、と頬が赤くなるのを感じた。

「はい……あ、あの、」

どんなチョコレートが好きなんだろう。
弁慶は、聞きたかったけれど。

「ん?」

「い、いえ………あの、また…明日……。」

聞けない。
喜んでもらえるようなものを選べる自信もなくて。

「ん、また明日ね…。」

名残惜しいけれど、弁慶は、くるり、ドアに振り向く。
明日は、図書室も昼休みに行ってしまおう。
放課後は、ずっといっしょにいられるように。

「―失礼しま…、」

失礼しました、そう言って、ドアを開けようとしたところ、だった。
ふわり、かすかにヒノエの香りがした。
腕が優しく回って。
気づいたら、閉じ込められてる。

「―今日はいっしょにいられないから、ちょっとだけ、ね?」

鼓動がうるさくて、よく聞こえなかったけれど。
背中にヒノエの温もりを感じた。
弁慶の携帯が、メールの受信を告げるまで、
そうして腕に包まれていて。

「―引き留めちゃって、ゴメン。
 行ってらっしゃい。」

振り返れなかった。
きっと、顔が真っ赤だろうから。

「行って…きます……。
 失礼、しました……。」

ドアを開けて、すぐに閉める。
廊下の冷たい空気が心地よく感じた。

(び、びっくりした……。)

熱い頬に手を当てて、ひとつ、深く息を吐いた。
少しして、メールがあったことを思い出して、弁慶は慌てて携帯を開く。
望美から、昇降口で待ってる、というメールだった。

(顔が赤い、って言われたら、どうしよう……。)

けれど、待たせてるのも申し訳なくて、弁慶はすぐに昇降口に向かった。



慌てて昇降口に行くと、望美は、スニーカーの靴ひもを結んでいた。
そこまでは待たせていないようで、ほっと胸を撫で下ろす。

「お待たせしました…。」

「んーん、今降りてきたとこだから、平気だよー!」

望美は明るく言った。

「あれ…?」

そのあと、ふ、と考え込むような顔になったので、弁慶は思わずどきっとした。
顔が赤い、そう言われると思って。

「弁慶さん、なんかいい匂いするー!
 香水なんてつけてたっけ?」

「…?
 い、いえ……。」

良かった、違う。
そう思ったけれど。
はっとした。
吹き込む風に、ヒノエの香水の移り香が、かすかに香って。

(―先生の、香り…?)

また顔が赤くなってしまう。

「どうしたの…?」

「い、いえ…!
 あの、行きましょう…?」

弁慶は、赤い頬をマフラーにすっぽりうずめて、
ローファーを履いて、早足で歩き出した。
望美があとを追いかける。

「え、弁慶さん?待ってよー!」

冷たい風で、早く頬の熱が冷めて欲しい、と思った。





駅ビルは、たくさんの女性で埋め尽くされていた。
特設のチョコレート売場は、人でごった返している。

「前々日じゃなくて、やっぱり、
 もっと早く買いに来ればよかったねー。」

望美が苦笑すると、弁慶も黙って頷いた。
そういえば、誕生日にも、たくさん買い物に来ている人がいたような気がする。
どうして、そのときに気づかなかったんだろう。

「どうしよっかー?二手に分かれる?
 私はたくさんあげるから、箱に入った詰め合わせとか見るけど、
 弁慶さんは、買うの、ひとつだけでしょ?」

ひとつだけ。
そう言われて、少し照れて俯く。

「お、お父さんにも、買います…けど…。」

望美が、一瞬きょとん、として、そのあと笑った。

「―そっか、お父さん、か…。
 あげようかな、お父さんにも。」

「?去年は、あげなかったんですか…?」

弁慶が首を傾げれば、望美が少し恥ずかしそうに
ぶんぶん手を振りながら言った。

「え?
 あ、あげたけどさ…もう、高校生になったから、
 やめようかな、とか思ったの!
 で、でも、弁慶さんもお父さんにあげる、って言うなら、
 まだあげてもいいかな、って……。」

それは望美らしい照れ隠しのように見えて、弁慶は思わず微笑む。

「―きっと、喜んでくれますよ、お父さん。」

「うん…でもね、お、お父さんの話はいいのっ!
 ほら、弁慶さんは先生の買うんでしょ…?!」

かあ、と頬を赤くして、目を惑わす弁慶が可愛くて、
望美はぎゅっと手を握った。

「17時にロビーの噴水!
 健闘を祈る!」

そう言って、望美は人ごみに飛び込んで行った。
取り残された弁慶は、その後姿を見送ったあと、ひとつ息を飲んだ。



たくさん人がいて、なかなか前に出られなくて、弁慶は困り果てていた。
父親へのチョコレートは、毎年決まったお店のものをあげている。
中にブランデーの入った、大人のチョコレートだ。

(先生も、お父さんみたいなの、好きなのかな…?)

香水の香りを思い出して、考える。
先生は、大人の、男のひと。
弁慶の知っている大人の男のひとは、父親くらいだから。
悩まなくていいはずの父親のチョコレートでさえ、なかなか買えなくて。
同じチョコレートにするか、別のものにするか、散々悩む。

「お客さま…?」

「す、すみません…これ、ひとつ、ください…。」

店員に問いかけられて、弁慶は慌てて、そう言う。
結局、父親の分だけ買って、他の店に向かった。

(どうしよう……。)

弁慶は、半ば途方に暮れて歩いている。
どのチョコレートもおいしそうで、綺麗で、可愛くて。
でも、どんなチョコレートが、ヒノエの好みなのか、分からない。

(自分が食べたいものなら、簡単なのに…。)

やっぱり、聞いておけばよかった。
好きなチョコレートの種類ひとつ、聞けない。
そんな自分が嫌い。

(どうしたら、いいんだろう…。)

なかなか決められずに、いくつか候補だけ見つけただけで。
約束の17時になってしまった。



父親へのチョコレートをひとつ、それだけを手に、待ち合わせ場所に向かえば、
大きな紙袋を抱えた望美が待っていた。

「あれえ?
 ひとつ、だけ?」

首を傾げる望美に、弁慶は、俯いて言った。

「決まらなくて…。
 先生が、どんなの好きか、分からないんです…。」

しゅん、と哀しそうに言う弁慶の髪を撫でて、望美は微笑んだ。

「先生は、弁慶さんがあげるものなら、きっと何でも喜んでくれるよ?」

「でも……。」

「いっしょに悩もうか?
 それとも、自分で選びたい?」

顔を上げて、いっしょに悩んで、と言いたかった。
でも、それではいけない気がして。
ちゃんと、自分が選んだ、って言えるものを贈りたくて。

「―すみません、先に帰っててください…。
 もう少し見て、自分で選びます。」

そう言うと、望美はまた弁慶の手をぎゅっと握った。

「―うん。
 じゃあ、帰り、気をつけるんだよ?
 健闘を祈る!」

じゃ、と爽やかに手を振って駅の改札に向かう望美を見送って、
弁慶はチョコレート売場に引き返した。



物を買うのに、こんなに悩んだことはなかった。
ビター・スウィート・ミルク・ホワイト・ストロベリー。
細かく言えば、もっともっと種類のあるチョコレートの中から、
一生懸命悩んで。

(他の人からも、もらうだろうから、同じのだったらやだな…。)

自分だけ、特別がいい、なんてわがままだけれど。
いくつかに絞った候補の中から、少しずつさらに絞っていく。

(これならどうかな……。)

すみれやバラの砂糖漬けの入った、花のかたちのチョコレート。
お店の人に、コーヒーにも合う、と言われたから。
少し、予算よりは高めだけれど、これなら。
これにしよう、と心に決めて、精いっぱい声を張る。

「こ、これ、ひとつ、ください…!」

「はい、ありがとうございます。」

お店のひとが包んでくれる間も、ずっとどきどきしていた。
どうやって渡そうか、何て言って渡そうか。
受け取ってくれるかな、喜んでくれるかな、と。

「―お待たせいたしました。
 ありがとうございます。」

淡いピンクの包装紙に、色合いの違う赤いリボンが幾重かに結ばれて、
中央には花飾りがたくさんついている。
とても綺麗で、思わず笑顔になった。

「は、はい、ありがとうございます…!」

ぺこ、とひとつ頭を下げて、弁慶は早足で帰る。
紙袋のなかで、かさかさ、花飾りが揺れた。





―バレンタインは明後日。
 大切に、机の上に紙袋ごと置いて。
 何度も、包みを眺めた。
 喜んでくれるといいな、と淡い想いを抱きながら。
 かすかな移り香は消えてしまったけれど、
 代わりにチョコレートの甘い香りが制服から香っていた。