守ろう、という気持ち




秋。
日が暮れるのも早くなって。
いっしょにいられる時間が短くなってしまった。
暗くなると危ないから、って早めに帰される。
もっと、話していたかった、なんて残念に思って。
ひとりで、そんな考えを振り切るように、首を横に振ったりして。
いつの間に、こうしていっしょにいるのが、当たり前になったんだろう。



ホームルームを終えて、図書室に行く前に、保健室を通りかかると、
「職員会議中」との札がかかっていた。
「急用の方は職員室まで」と書かれているけれど、
急用というわけではない。
心もちさみしい気持ちを抱えながら、階段を上った。

(会議かあ…。)

そうして、いつもどおり少し読書をしてから、また階段を下りる。
保健室に目をやれば、今度は電気が消えて、
「本日は帰宅しました」との札がかかっていた。

(こんなに早く帰るの、珍しいな…。)

何だか、さみしい。
けれどそんなことを言っても、何か変わるわけではない。
仕方なく、中庭の仔猫を少し撫でてやって、帰った。



翌日も、翌々日もそんな調子で会えなかった。
ホームルームも、授業中も、うわの空。
そんなに毎日職員会議なんてあるのか、なんてだんだん不安になって。

(避けられてる、とかじゃないですよね…。)

会議なんだから、それはないだろう、と思いたいけれど。
でも、帰るのもいつもよりあまりに早くて。

(毎日毎日だったから、ほんとは迷惑してたのかな…。)

何だか哀しくなって、寂しくなって、弁慶は気持ちが落ち着かなかった。
急に涼しくなった秋の風が、なんだか余計に冷たく感じた。





その日も、落ち込んだ気持ちのまま、図書室で本を読んでいた。
何冊読んでも、落ち着かなくて、次々と本を開いているうちに、
すっかり辺りは暗くなっていた。
時刻は、もうすぐ18時。
気づけば、運動部の生徒の掛け声さえ聞こえなかった。

(帰らないと…。)

読みかけていた本を、そのまま閉じて本棚に戻した。
階段を下りて、明かりの消えた保健室にかかる「本日は帰宅しました」の札を見れば、
またちくん、と心が痛んだ。

(…やっぱり、そうなのかな…。)

迷惑だったんだろう、と思って、苦しくて、俯きながら暗い道を歩いた。



秋の虫の鳴く声に、ひとつ、ふたつ、ため息。
俯きながら、少ない街灯の明かりを頼りに歩く。
そうして、ふ、と意識を研ぎ澄ますと、足音がした。
深くは考えなかった。
まだ残っている生徒だっているはずだし、この道を使うのは、
別に自分だけじゃない。
細いけれど、駅へ行くいちばん近い道だ。

(何だか、怖いな…。)

思わず足を速めると、後ろの足音まで追いかけてくる。
追いかけられてる、と気づいて、振り返ると
もうすぐ傍に迫っていて。
声を出すことも、走って逃げることもできないまま、
大きな黒い影に、いきなりがしっと腕をつかまれた。

「……!」

すごい力だった。
片方の手首を捕えると、もう片方の手首までつかんで、
持っていたかばんを強引に振り払われる。
携帯も、防犯ブザーも、全部かばんに入っていて。
黒い影は、かばんには目もくれずに、弁慶の手首をつかんだまま、
コンクリートの壁に押し付ける。
つかまれた、手首から先がじん、と痺れる。
頭の上に手首を押さえつけられて、片手でひと括りにされた。
もう片方の手が、しつこく身体の線を辿る。

「や…!」

助けて、と叫びたいのに、息がつまって声が出なくて。
首を横に振って、拒絶を表した。
そんなことしたって、伝わらないって、分かっていたけれど。
誰か、助けて。
そう心の中で叫んだとき、浮かんだ「誰か」の顔は、ヒノエだった。
もう家に帰ってるんだから、ここを通るはずなんてないのに。



ただ怖くて、何が起きているのか分からなくて。
この今の状況が、ひどく現実離れしていることのように思えてくる。
悪い夢なんじゃないか、と思って。
そう、思ってしまいたくて。

「……藤原!!」

向こうから、ひとつの灯りが近づいて、声がした。
聞きなれた声。

「…せん…せ……?」

黒い影がびくり、と身体を動かした。
それでも、手首を放してはくれない。

「手、放せよ…!!!」

ヒノエが、黒い影につかみかかって、
弁慶の手首をつかむ手を、無理やり解いた。
支えを失ったように、弁慶がその場に崩れ落ちた。
その間にヒノエは、黒い影に殴りかかる。



こんなに怒ったヒノエの顔は、見たことがない。
容赦なく殴りつけて、その影は動かなくなった。
それでもなお、殴るのをやめようとしないヒノエに、
弁慶はしがみついた。

「だめ…です…!」

ヒノエの動きが止まる。

「せんせい、が、つかまっちゃいます……!」

だめ、と細く震えた声で言う弁慶に、
振り上げた手も戻すしかなくて。
気を失った犯人を道に転がすと、携帯で警察に通報し、
学校にも連絡をつける。
弁慶は、その場にまた座り込んだ。
ヒノエは、電話を手短に済ませ、座り込んだ弁慶に視線を合わせる。
震えの止まらない手に、もう片方の手を重ねていて。
かすかに涙の滲んだ目は、戸惑ったように揺れていた。
抱きしめたかった。
けれど、ひどく怯えたその姿に、触れることさえできなくて、
ヒノエには、ただそばにいることしかできなかった。



警察がやってきて、犯人を捕まえて行った。
ふたりも事情聴取に呼ばれ、弁慶は、何があったのか
詳細に聞かれた。
思い出すのも怖いだろうに、そんな無神経な質問に耐えて、
涙ひとつ零さずに答えた。
ヒノエは、少し殴りすぎだと注意されたけれど、協力に感謝する、
と警察から送り出された。
そうして、ふたりは、他の先生方のいる学校に一度戻ることになった。
弁慶は、一度も涙を零さなかった。



学校に戻ると、先生方がいる職員室に通されて、どの道で、
どういうことがあったのか、やはり聞かれた。
弁慶は、淡々と同じようなことを答えた。
ヒノエは心配そうにその様子を伺う。

「藤原先生は、同じ方向でしたよね?
 送っていってやってください。」

「……はい、分かりました。」

ヒノエは、弁慶を庇うように立つと、職員室から出た。
暗い学校の校舎内。
弁慶の表情が伺えない。

「……保健室で、お茶でも飲んでく?」

暗闇の中、こぼれる職員室の明かりに、
かすかに弁慶が頷いたのが分かった。
暗いのは怖いだろう、と廊下の電気をつけながら歩く。



「帰宅」の札をつけたまま、ヒノエは保健室の鍵を開けて、
弁慶を招いた。
電気をつけ、いつもの椅子に座らせる。
ひとことも何も言わない。
そんな様子を、痛ましく思いながら、
ヒノエはいつもどおりのミルクティを作った。

「…今日は涼しいから、あったかいのでいいだろ?」

ひとつ、弁慶が頷く。
いつもきれいに編んであるみつあみが、かすかに乱れていた。

「はい、どうぞ。」

ふわり、白い湯気を立ち上らせたミルクティ。
弁慶の好きな砂糖多め。
弁慶は、まだ震えている手で受け取り、ひとくち、口に含んだ。

「…あったかい……。」

ほっとした。
猫舌な自分を気遣った、優しい温度のミルクティ。
途端に、ぽろ、と涙が零れた。
あとからあとから零れて、頬を濡らす。
ヒノエは、その涙を拭ってやりたかった。
でも、今は、きっと怯えさせてしまう。
だから。
何も言わないで、ただハンカチを渡した。
弁慶は、カップを机において、ハンカチを受け取る。
ずっと我慢していたのか、その涙は止まらなかった。

「…こわ…かった…。」

警察にも、先生方にも言わなかったひとことを、
今やっと言えた。

「…せんせいが…きてくれて…よかった……。」

細く消えてしまいそうな声で、言う。
ヒノエは、唇を噛み締めた。

「もっと、早く助けたかった…。
 ゴメン…。」

そのことばに、弁慶が、目を上げる。
たまっていた涙が、また流れ落ちた。
首を小さく横に振って、弁慶は微笑んで見せる。

「先生…じゃなかったら、きっと…もっとこわかった…。」

犯人が捕まったあと、付き添ってもらって警察に行くときも。
先生じゃなかったら、きっともっと怖かった。
だから、謝らないで下さい。
弁慶は、そう言って微笑んだ。



泣いて、少し落ち着いたのか、
弁慶はまたミルクティを飲み始めた。
だいぶぬるくなってしまったけれど、
ゆっくりと、ひとくちひとくち大切に飲む。

「……最近、ずっと会議ばっかで、
 会議終わったら、見回りだったんだ。」

だから、放課後は、保健室も締め切りだった。
ヒノエは、ここ数日のことをそう話した。
最近、痴漢が出るらしいということで、
先生方で見回りをしていたんだと言う。

「…あのとき、止めてくれなかったら、
 きっとあいつのこと殴り殺してた。
 それくらい…憎かった。」

ひとりごとのように言う、ヒノエのことばを弁慶はただ聞いている。

「見つけたとき、被害にあってるのがアンタじゃなかったらいい…
 なんて、本当は思っちゃいけないんだろうけどさ、そう思ってた。」

「そんなこと……思っちゃいけません、よ…。」

他の誰かが、こんな目にあっていいわけじゃない。
哀しく微笑んで、弁慶が言うのを、
何も言えず苦しい思いで見た。
ヒノエの足元で、にいにい、仔猫が鳴き始めた。

「このこも、そう、言ってます。
 ね、先生?」

仔猫をそっと抱え上げて、弁慶は優しい手で撫でた。
嬉しそうに、何も知らない仔猫は目を細める。
仔猫の温もりが、何だか安心した。



帰り道。
弁慶は、ヒノエの車に乗った。
助手席で、ずっとただ黙っていた。
いくつもの信号を越えて、
流れていく窓の外の景色をぼんやりと見ていた。
その景色が、見慣れた景色に変わっていくと、少しだけほっとした。

「…ここ、だったよね?」

「…はい。」

ヒノエは、エンジンを止めて、鍵を抜いた。
ドアを開けて、荷物を持ってくれる。
そうして、弁慶が、ひとりでエレベーターに乗らずに済むようにして、
部屋の前まで送ってくれた。

「…ありがとうございました。」

弁慶は、会釈して、かばんを受け取った。
鍵を出す手が震えていた。
ヒノエは、たまらなくなって、声を出した。

「…もし、」

「え?」

ヒノエは、ポケットから紙切れを出して、さらさら、何かを書き始めた。
弁慶は、じっと待っている。

「何かあったら、すぐに電話して。
 夜中でも、必ず駆けつけるから。」

そう言って、携帯の番号を書いた紙切れを、
弁慶の手のひらにそうっとのせた。
弁慶は、両手で大切そうにそれを持って、こくん、と小さく頷いた。
鍵を開けて、ヒノエに振り向く。

「……おやすみ…なさい…先生。」

「…ん、おやすみ。」

ドアが閉まる直前に、小さく会釈して、
弁慶は部屋に入った。
がちゃ、と中から鍵をかけたのを、確認して、
ヒノエは車に戻った。





守ってやりたい、と思ったのは、ずっと前だった。
守ろう、と決めたのは、このときからだった。