ないものねだりな、願いごと




少し前から、気になっていたことがある。
それは、先生の。

「…藤原サン?」

いつもどおりの放課後、突然黙ってしまった自分に、
先生はそう言って呼びかけた。
気になるのは、そう、呼び方。

(望美さんは「春日」、朔さんは「梶原」……。)

なのに、どうして自分だけ「藤原サン」なのだろう。
何だかすこし、さびしいのだ。
自分だけ輪の外にいるようで。

「…なんでもないです。
 クッキー、おいしいですね。」

一つ笑ってはぐらかして、クッキーをひとくちかじる。
先生は、いまいち納得していないような表情だったけれど、
それ以上は何も言わなかった。



翌日の昼休み。
いつもどおり、望美や朔といっしょにお弁当を食べた。
食べ終えると、望美がたくさん話してくれる。
昨日あった面白いこと、ドラマの話。
望美はとても明るくて元気で、弁慶はいつも元気をもらっている。

(望美さんみたいな子のほうが、先生は好きじゃないかな…。)

今でも、ときどき、そう思う。
自分は、よくしゃべるほうでもないし、特に面白いことも言えない。
ほとんど聞くばかりで、自分から話すことなんてそうそうない。
そんな自分と話していて、先生は楽しいのかな、なんて。
ひとつ、ため息をつけば。

「―弁慶さん?」

急に覗き込まれて、おどろいて、飲み物をこぼすと、
弁慶以上に望美があわてた。

「大丈夫?!
 やけどとかしてない…!!?」

「え、はい…。」

もうほとんど冷めていたから、と言おうとしたのに。

「やけどしてたら大変!!
 保健室行こ…!」

「え…っ?!」

ぐいっと、腕を引かれて、引き摺られるように
保健室まで連れて行かれる。
朔は苦笑しながら、その後ろを歩いている。



「失礼しまーす!!」

ノックもなしに、いきなり戸を開けると、
呆れた表情の先生がそこにいた。
突然連れてこられたから、心の準備ができなくて、
思わず望美の影に隠れる。

「春日、ノックしろって何度も……、」

「だって、一大事だもん!!」

「…何?」

「弁慶さんが熱いお茶、膝に零しちゃったんだよ?
 やけどしてたら大変でしょ?!」

また、腕をぐいっと引かれて、前に出される。
先生の表情が優しい。

「…どこに零したの?
 ああ、ここかな?」

スカートの色がかすかに変わっているところを見つけて、
先生はじ、とこちらを見つめてくる。

「だ、大丈夫ですっ!
 ほとんど冷めてたので…あの……、」

「ん、見せてごらん?」

スカートを少しだけ、ぺらり。
思わず真っ赤になる。
その途端、望美が、思い切り先生の前に立ちはだかった。

「ダメー!!
 先生っ!セクハラ!!」

「あのなあ、春日…。
 やけどが心配で連れてきたくせに、
 見せないとか、おかしいだろ?」

「だって、スカートめくった!!」

「こぼしたとこがそこなんだから、仕方ないだろ?」

「でも、弁慶さんがいい、って言ってない!」

「……藤原サン、いい?」

「えっ?!あ、あの……っ…、」

急に話がこちらに向いて、困り果てていると、
朔がくすくす笑っていた。

「望美、弁慶さんが困ってるから、
 その辺にしたほうがいいと思うわ。」

だって、と望美が不満げに唇をとがらせる。

「…見たトコ、やけどはしてないみたいだから、
 大丈夫だよ。」

先生は、そう言って、頭を軽く撫でてくれる。
それを見て、また望美が騒ぎ出す。

「先生、弁慶さんの脚、やっぱり見たんだー!」

「春日…お前なあ……。」

「だって、見たんでしょ?!セクハラ!」

「保健医がケガ診てセクハラになるんだったら、
 仕事にならないんだけど?」

「違うよ!先生がセクハラなんだもん!
 存在がセクハラ!!」

「その発言そのものが、オレに対してセクハラなんじゃない?」

もうふたりとも、ああ言えばこう言う状態が止まらない。
朔と目を合わせて、苦笑したけれど。
内心、少しだけ、望美がうらやましかった。
こんな風に先生と言い合うなんて、できないから。

「………いいなあ…。」

ぽつり、と思わず口にすれば、ふたりが言い合いをやめて急に振り返る。
口にしてしまっていたことに慌てたけれど、もう間に合わなくて。

「何が、『いいなあ』なの?」

先生が優しく問いかけてくる。
困って、俯いた。
小さく言う。

「……望美さんが、うらやましくて……。」

「え?!私?!」

望美が目を丸くする。

「……先生と、そうやって話せるの………うらやましい……。」

そう言っていたら、予鈴が鳴った。
教室に戻りな、という先生の声に一度振り返ると、
先生の唇が「またあとでね」と動いた。
ただ、こくん、と頷いて、教室まで急いだ。



放課後。
少しだけ緊張して、保健室のドアの前に立つと、
突然戸が開いた。

「いらっしゃい。」

「あ、はい……お邪魔します…。」

座るように促されて、いつもどおり座れば。
やっぱりいつもどおり、ミルクティを出される。

「で、春日みたいに、オレと何を話したいのかな?」

くす、といたずらしてるみたいに笑って、先生が言う。
かあ、と顔が赤くなるのが分かって、思わず顔を伏せた。

「セクハラー!って?」

先生がまた、くすくす笑う。

「ち、違います…っ!」

なんて言えばいいんだろう。

「………どうして、『藤原サン』なのかな、って…思ったんです……。」

「ん?」

聞き返されるとは思わなくて、ますます顔が上げられない。

「……望美さんは、『春日』、朔さんは『梶原』なのに……どうして、」

「ああ…どうして『サン』づけなのか、って?」

こくん、と頷くと、先生は優しく髪を撫でてくれる。
思わず顔をあげると、ひどく優しい目をしてこちらを見ていた。
どき、と鼓動が高鳴る。

「…藤原サンは、トクベツ、だからね。」

「とくべつ……?」

「そ。ホントは、弁慶、って呼びたいけどさ…
 学校じゃ、そう呼ぶわけにはいかないだろ?」

少しだけ苦笑して、先生が言う。

「だから、さ……『藤原サン』なの。」

分かってくれた?と、ぎゅ、と抱きしめられて。
うれしくて、どうしていいのか分からなくて。
ただ、はい、と返事することしか、できなかった。





―特別、だから。
 うれしいけれど。
 やっぱり、自信なんてない。
 こんな自分を、どうして、特別にしてくれるの、だなんて、
 そこまでは聞けないから。
 やっぱり、望美さんみたいに、なりたい。
 ないものねだりな、願いごと。