約束の、しるし




アナウンスが流れて、電車のスピードが落ちる。
ゆっくり、と、駅名が見えてきた。
どんどん鼓動が速くなる。
先生に、会える。



駅のホームに降り立つと、南口改札の看板を探した。
ゆっくり、ゆっくり、歩きながら進むと、改札口にヒノエの姿があった。
見つけられて、ひらり、と手を振られる。
どうしよう。
すごく、どきどき、してきた。

「―呼び出してゴメンね?」

「い、いえ…。」

目が見られない。
戸惑ったままの弁慶に、するり、
伸ばされた手は、優しく重なって。
そうして、ゆっくりと腕を引かれた。

「ちょっと、付き合って?」

「はい……。」

どこに、とも、何をしに、とも言わなかった。
ただ駅ビルの中に入っていく。

「何買ったの?」

「あ、えっと…少しだけ、洋服を…。」

「そか。」

少しだけ目を上げると、視線が合う。
いつもよりさらに優しく穏やかなまなざしに、思わずどきりとした。
いくつか、雑貨屋さんに入って、何やら探しているような様子だった。
横にいて、弁慶は、ヒノエが目で追うものを見ていた。
ガラスケースの中のアクセサリーなんかも見ている。

(―あ、かわいい………。)

細い金色の線でさらり、と書かれた「Promise」の文字。
その文字の最後に、小さなリングのついた、ブレスレット。
リングは小指の先くらいの大きさで、小さな石がついている。
誕生石ごとになっているようで、2月のものもあった。

(今度、また、見に来よう…。)

今、ガラスケースから出してもらう勇気なんて、ないから。
値段も分からないし、学生で買えるものなのかも分からない。
思わず、じ、と見入っていれば、ヒノエが視線をこちらに向けてくる。

「ん、何かいいの、あった?」

「い、いえ…大丈夫、です。
 先生は、何か買わないんですか?」

「ん、まあ…ね。
 なかなかいいのが見つからないなーと思ってたトコ。」

そう言ったけれど、ヒノエは何だか満足そうだった。

「―アンタとこうやって、いっしょに買い物とかできるの、いいね。
 やっと、恋人、らしいことできた気がする。」

恋人、そのことばに、弁慶はどきりとした。
うれしい。
恋人だと、思ってくれてるんだ。
ほのか、赤く染まった頬を隠したくて、少しだけ俯いた。

「そうだ、夕飯くらいは、ごちそうするよ。
 せっかくの休みに、呼び出しちゃったしね。」

「え、でも…そんなの、申し訳ない、です…。」

遠慮がちに目を伏せる弁慶の髪を、そっと撫でた。
そうして、目をしっかりと合わせて。

「―年上の恋人らしいこと、させてよ。
 ね?」

間近でそういわれれば、弁慶は思わず頷いてしまう。
ヒノエは満足げに微笑んで、上の階のレストランに弁慶を連れて行った。



優しい照明の、カジュアルなレストラン。
祝日だから、少し混んでいたけれど、すぐに席に通された。
窓際の席からは、電車が見えた。

(ホントは、もっとちゃんとしたトコ、連れて行きたかったんだけど。
 値段とか、気にするだろうしな。)

ヒノエは、こっそりそんなことを思っていた。
ごちそうする、って言っただけで、遠慮されてしまうくらいだから。

「好きなもの、頼んでいいよ。
 デザートもつけていいし。」

「え、と……。」

弁慶はメニューを眺めて、考え込んでいる。
目が値段を追うから、ヒノエは値段をもうひとつのメニューで隠した。

「ココは、気にしないの。」

弁慶は、困ったように笑う。
ようやく選んだのは、サラダとパスタ。
ヒノエが、店員を呼んで注文してくれた。



柔らかい照明が降り注ぐ。
緊張しているのか、黙ってしまっている弁慶を、
ヒノエは思わず見つめた。
白くて柔らかそうな頬に落ちる、長い睫の影。
人形のような、整った顔立ち。
ころころ変わる可愛い表情。
弁慶は、いつも自分のことを謙遜するけれど、
こんなに可愛い子は、そうそういない。
もちろん、顔だけで好きになったわけではないのだけれど。

「―あ、あの……?」

つい、見つめすぎてしまったようで、弁慶が不安がって声を出す。
何か顔についてるんじゃないか、とでも思ったようだ。

「ゴメン、何でもないよ。
 可愛いなー、って思ってただけ。」

そう言ってみれば。

「か、可愛くなんて、ない、です……。」

真っ赤になって、また俯いてしまう。
そんなところが可愛いのに。



料理が運ばれてきて、弁慶は、ほっとした。
だって、何を話して良いのか、分からなくて。
学校では、何を話していたんだろうか。
思い出せない。

「―いただきます。」

静かに丁寧に言った言葉が重なって、
かすかにふたり笑った。
時折、そっと目を上げれば、優しい視線が向けられていて、
弁慶はまた目を伏せてしまうのだった。



デザートは、温かいアップルパイにバニラアイスののったもの。
ほわり、湯気のたつ紅茶に、睫をかすかに振るわせる。

「―おいしい、ですね……。」

幸せそうな弁慶の笑顔に、思わずヒノエの顔も綻ぶ。

「ん、喜んでもらえて良かった。」

ほのかに頬を染めて目を伏せる弁慶を、いとおしそうに見つめて。
ヒノエは、コーヒーをひとくち飲んだ。

「―おいしかったです…ごちそうさま、でした…。」

しずかにフォークを置いて、弁慶は一息ついた。
少し冷めた紅茶を飲み終えて、一瞬目を伏せる。

(食べ終わっちゃった…から…もう、帰らないといけないのかな……。)

楽しくて、嬉しくて、幸せで。
いつもより話せなかったけれど、いつもより距離が近い気がして。

(でも、最高の誕生日……。)

伏せた目を上げて、空になったカップを置いた。

「紅茶、もう一杯、飲む?」

「あ……はい…。」

ヒノエのことばが嬉しくて、小さく頷いた。
もう少し、いっしょにいられる。
紅茶一杯分は、いっしょにいられる。

「あ…ちょっと、待ってて。」

ヒノエが急に席を立った。
弁慶が、不安そうに目を上げると。

「すぐ、戻ってくるよ。
 ちょっとだけ、ね?」

そうして、行きがけに飲み物のおかわりを頼んで、
ヒノエはいなくなってしまった。

(どうしたんだろう…?電話、かな…?)

弁慶は、窓の外の電車の明かりを眺めて待っていた。
時間はもう、8時。
そろそろ、帰らないといけない時間。
電車が到着して、出発していく様を、少し寂しい気持ちで見ていた。



少しして、ヒノエが戻ってきた。
飲み物のおかわりも届いて、ひととき、話が途絶える。

「……これ。」

「え……?」

ヒノエが、そっと本をテーブルに置いた。
弁慶が首を傾げる。

「誕生日、おめでと。」

「え………。」

手が震えた。
そんな弁慶の様子に、くす、とヒノエが笑う。

「開いてごらん?」

「は、い……。」

そっと、開くと、弁慶が欲しがっていた本。
単行本は持っているけれど、ハードカバーのデザインが綺麗で、
ずっと欲しかったもの。
一度だけ、何の気なしに話しただけ。
覚えていてくれたことも、探してくれたことも。
誕生日を知ってくれていたことも、うれしくて。

「なんで………誕生、日…。」

「ああ…ゴメン、名簿見ちゃった。」

ヒノエが、舌を出して笑った。
朔の言葉を思い出して、弁慶が、くすくす、笑い出す。

「…朔さんが…職権濫用だって……。」

「ふふ、返す言葉もないね。」

ヒノエは苦笑する。

「でも、何も言ってくれないからさ…。
 アンタを祝いたい、って気持ち、分かってほしかったな。」

弁慶が、嬉しさをにじませたあと、少し目を伏せた。

「ごめんなさい…。」

「いいよ。
 その代わり、オレの誕生日は、アンタの1日をちょうだい?」

目を上げると、ヒノエは、ひどく優しく笑っていて。
弁慶は、かあ、と頬を染めた。

「―先生の、誕生日は…いつ、ですか…?」

「4月1日、春休み、だよ。
 何もいらないから、アンタの1日が欲しい。
 ダメ?」

弁慶は戸惑いに目を泳がせたあと、確かに首を横に振った。

「だめ、じゃないです…。
 先生が、それで…いいなら……。」

ヒノエは、満足げに笑った。

「決まり。
 約束、ね?」

そっと小指を差し出して、弁慶の細い小指と絡めた。



しっかりと約束したあと、一瞬の沈黙。
ヒノエは、またくす、と笑みを零す。

「―プレゼント、もっとちゃんと見て?」

「え………?」

弁慶は、ぱらり、とページを捲った。
何かが挟まっている。
そのページを開くと。

「…!
 さっきの……?」

「そ。
 これは、約束のしるし。」

送りたいことばにぴったりだった、ってヒノエが笑う。
さっき弁慶がじっと見ていた、ブレスレット。
栞代わりのクリップに、とめられていたのを、ヒノエはそっとはずして。

「手、出して?」

「あ…はい………。」

そっと出した手首に、ヒノエがブレスレットをつけてくれる。
きらり、光る、アメジスト。

「まだ、本物をあげられないから、ね。」

「え…?」

首を傾げる弁慶に、ヒノエは、そっと囁いた。

「指輪。
 16歳はもう、結婚できる歳、だろ?」

ブレスレットについた、小さな指輪を、ゆらり揺らして。
指輪にひとつ、キスを落とした。
弁慶が、真っ赤になる。

「今はまだ、『約束』だけしか、できないけどさ…。」

「あ、Promise…?」

「そ。
 Promiseってね…昔は、『婚約』って意味もあったんだよ。」

手を取って、優しく微笑む。
弁慶の目が、きらきら、光る。

「―それくらい、好き、だから。」

今はまだ、先生と生徒、だけれど。
約束させて。
ずっと、ふたりでいたいんだ。
卒業してもずっと、その先もずっと。
ヒノエのことばに、弁慶はうれし涙を滲ませて、ただ頷くしかなかった。



帰り道、ふたり、電車に揺られて。
ことばはほとんど交わさなかった。
弁慶は胸がいっぱいで。
家まで送ってくれるヒノエと、手をつないで。
かすかに揺れるブレスレットが、何だかくすぐったい。
別れ際、前髪にふわり、ひとつキスが降って来た。

「―も1回、誕生日おめでと。
 あと、ありがと。
 また、明日ね?」

赤い頬をマフラーに埋めて、弁慶は小さな声で返す。

「ありがとうございます…。
 また、明日…。
 おやすみなさい…。」

弁慶は、丁寧に、ひとつ礼をする。
きらり、ブレスレットの光る手を振って、何度も振り返るその姿を、
ヒノエはずっと眺めて、そうして、家路に着いた。



部屋に戻って、ブレスレットを手首ごと抱きしめる。
Promise、その文字を指でたどって。

(約束の、しるし……。)

ひとり、心の中で、そのことばを繰り返した。



―約束の、小さな指輪が、音もなく揺れる。
 きらり、と光って、夢じゃない、と教えてくれる。
 16歳になったことが、こんなに幸せで特別なことだなんて、
 思ってもみなかった。