あのとき、つないだ手




まぼろしみたいな夜だった。
ふたりつないだ、手の温もり。
甘くて小さなりんご飴。



昨日つないだ左手を、ぼんやり眺めた。
今でも、何だかどきどきする。
今日は、なんだか恥ずかしくて、顔が合わせられない。
保健室に近寄りがたくて、図書室にさえ行きづらい。
でも、今日は本の返却日。
返さないといけない。
いつもより、倍の時間をかけて、渡り廊下までたどり着いた。

(どうか、会いませんように…。)

本を抱える手に力をこめて、そっと歩いた。
一歩、二歩、三歩、四歩。
数えるように歩いて、別棟に入った。
相変わらず静かで、なんだかほっとした。
目の端にも保健室を映さないように、少し急いで、さらさら歩いた。
階段まで進んで、ほっとする。

(よかった、今日は会わなかった…。)

そんなため息をひとつ吐いたけれど、かすかに寂しさがある。
どうして、なんて思っていると。
くい、と髪が引かれた。

「……今日は寄ってってくんないの?」

「先、生……!」

思い出しただけで、かあ、と顔が熱くなる。
あのとき自然につながれた手に、抗わずにいたけれど。
今はそれが恥ずかしくて。

「……本、返してからでもいいからさ、寄ってってよ。
 見せたいものがあるんだ。」

「見せたいもの、ですか?」

みつあみを捕えられたまま、首を傾げた。
ヒノエは、にや、と笑った。

「そ。じゃ、待ってるよ。」

「え、あ…。」

ヒノエは、あっさりとみつあみから手を離して、
保健室に戻って行った。
何だろう、と気になりつつ、弁慶は階段を上って
図書室に向かった。



とんとん、控えめなノックに、すぐに「どうぞ」と声が返ってきた。
振り返って待っていたところを見ると、
弁慶がやって来たことは分かっていたのだろう。

「あの、見せたいもの、って?」

「ん、とりあえず、中入って座ってよ。」

はあ、と弁慶が丸い椅子に座ると、ヒノエは立ち上がった。
ちょっと待ってて、と言って、かちゃかちゃ何かやっている。
そうして。

「はい、ミルクティ。」

「あ、ありがとうございます。」

グラスを受け取ると、氷の浮かんだ冷たいミルクティ。
涼しげな音が鳴る。

「……ここ、冷蔵庫まであるんですか?」

「ん、まあね。」

やっぱり何だか優雅だ。
弁慶がそんなことを思っていると、茶菓子にチョコレートを出される。
薦められるままに食べて、ぼんやり、ヒノエの右手を見つめた。
グラスを持つ手は、あのとき、つないだ手。
はっとして、またひとり赤くなる。
何か言わないと、沈黙が怖くて、
赤い顔を気づかれたくなくて。
なんだか緊張してしまう。

「あ、あの、見せたいものって…。」

「ああ、そうそう。これ。」

差し出されたのは、一冊の本。
はらり、表紙を開くと、ずっと欲しかった本のタイトルがあった。
どこにも売っていなくて、半ば諦めていたもの。

「昨日、探してる、って言ってたから。
 探してみたら、家にあったんだ。」

あげるよ、と優しく言われて。
嬉しくなって、本をぎゅっと抱きしめた。

「あ、ありがとうございます…!!」

正直、あのとき何を話していたのか、ほとんど覚えていない。
けれど、覚えていてくれて、それを探してきてくれたことが嬉しくて。
綺麗にカバーのかかったそれを、大切に抱えなおした。
顔を上げると、柔らかく笑うヒノエの顔。

「…喜んでもらえてよかった。」

自分が嬉しいことをしてもらったのに、ヒノエの顔が嬉しそうで。
心臓がうるさかった。
本を持ってきてくれたことより、ずっと嬉しいのは。
ヒノエの優しさ、だった。



本をぱらぱら眺めていると、机に置いたグラスの氷が
からん、と音を鳴らした。
開け放った窓から、風が渡る。

「…昨日、ほんとに可愛かった。
 だけどさ、」

思い出したようにぽつりと言うヒノエの声に、
弁慶は顔を上げた。
穏やかに目を細めて笑うヒノエから、目を離せない。

「いつもどおりの藤原サンも、可愛いよ。」

みつあみにそっと触れる手。
あのとき、つないだ右手。
目で追っていたら、その右手は、弁慶の左手に触れる。

「……!」

びくり、と身体を震わすと、その手はすっと離れた。
そうして、ヒノエは、何事もなかったかのように、
仔猫を連れてきて遊びだす。
どきどきしているのが、自分だけみたい、
と弁慶はかすかに目を伏せた。



少しずつ、分かってきた。
先生といるとき、こんなに緊張するのは、
苦手とかそんなものではないこと。
きっと、この気持ちは。



あの夜は、まぼろしじゃなかった。