続いてく約束




どきどき、ふわふわ、揺れる気持ちで。
なかなか寝付けなかった。

(ちょっと早すぎたかな…。)

約束は、駅前に10時。
寝過ごさないように、そう考えていたら早く目が覚めすぎて。
今はまだ8時。
約束の場所までは、ここから20分かかるか、かからないか。
遅刻するよりは、と思って、いつもより時間をかけて支度する。
髪は編まないまま、きれいに櫛で梳いて。



昨日、望美が貸してくれたワンピースを着て、鏡の前に立った。
自分ではきっと買わない、小花柄のワンピース。

(丈、短い、気がする…。)

大丈夫、大丈夫。
望美はからから笑って、貸してくれたけれど、
どう考えても短い。
制服だって、膝丈なのに。
膝がぜんぶ出てる。
思わず裾を引っ張るけれど、それで丈が伸びるわけじゃない。

(どうしよう、やっぱり、他の服にしようかな…。)

でも、せっかく望美さんが貸してくれたんだし。
そう思いながら、ひとりでクローゼットの前を歩き回る。
けれど、あと少しの時間で決められる自信もなくて。

(コート着ちゃえば、分からない、ですよね…。)

まだ4月。
シフォンのワンピース1枚だけでは寒い。
カフェオレ色のコートを羽織って、もう一度鏡の前に立った。
ワンピースの裾を引っ張って。
最後に、前にもらったブレスレットをつけて、
弁慶は意を決して出かけた。



通り過ぎる人の目が少し、気になる。
スカートが短い、はしたない、って見られてるんじゃないか。
ふわり風が渡れば、揺れるワンピースの裾に戸惑って。
ずっと裾を引っ張りながら。

(おちつかない…。)

待ち合わせの駅前についたのは、9時半。
やはり少し早すぎた気がする。
待つ時間が、こんなにも緊張するとは思わなかった。

(本の1冊でも、持ってくればよかったかな…。)

どうしよう、どうしよう。
ブレスレットに思わず指で触れる。
人の流れが、風が、不安をあおる。
思わずうつむいて、じっと待った。
編んでない髪が、風に、ふわり。



ふと目を上げると、人波のなかから、かすかに先生の姿が見えた。
まっすぐこちらに向かって、人波をかきわけて、進んでくる。
先生は、Tシャツにジャケットを羽織り、デニムをはいていて、
とてもかっこいい。
どきどき、鼓動がうるさくて、弁慶は思わず胸を押さえた。

「おはよ。
 待たせた、かな?」

「いえ…早く来すぎてしまっただけですから…。
 あの…、」

こんなに朝早くから、先生といっしょにいられるなんて、
夢みたい。
先生の誕生日なのに、贈り物をもらったのは自分みたいだ。

「―ん、何?」

「お誕生日、おめでとうございます…。」

小さな声で言うと、ひとつ頭を下げた。
顔を上げると、ヒノエがふわり、ほほえんでいた。

「ありがと。
 ――行こっか。」

どこに、とも言わなかったけれど、
差し出された手をとって歩き出した。



横に並んで歩きながら、ヒノエが目を細めてこちらを見ている。
弁慶は、不安になってうつむいた。
ワンピースの裾を引っ張って。

「―あ、あの…、」

「ん?」

「やっぱり、変、ですか…?」

「…?
 何が?」

「…この…格好…、」

似合ってない、ですよね。
そう、続けるつもりだったのに。
続ける前に、ヒノエの言葉が重なった。

「や、似合ってるよ。
 かわいい。
 いつもと少し…雰囲気が違うなって思っただけ。」

ゴメン、じっと見すぎたかな。
なんて苦笑されて、弁慶は困惑して目を泳がせた。

「…望美さんが…貸してくれて……。」

「へえ…春日が、ねえ…。
 ホントかわいい。」

春日のイメージじゃないけどな、
とヒノエはぼそりつぶやいたけれど、弁慶には聞こえなかったようだ。
きょとん、と目を丸くして、首を傾げる。

「―あの、今日は、どこに行くんですか?」

「―ヒミツ。
 キレイなとこだよ。」

急に手を強く引かれて、耳元でささやかれれば、
もう何も言えなかった。



着いた場所は、水族館。
春休みの喧騒から一歩離れて、急にしんとする。
ほの暗い室内に伸びるエスカレーターに乗って、中に入った。

「―水族館、ひさしぶりです…。
 小さいころ、両親と来たきり…。」

「―そっか。
 大人になってから水族館、ってのもいいんだよね。
 違う見方ができてさ。」

ひゅう、と少し涼しい風が吹いた。
すっとヒノエが風除けになってくれる。

「オレの小さいころなんてさ、オヤジが食い意地張ってて、
 ずーっとあれがうまそうだこれがうまそうだのって話ばっか
 してたよ、まったく…。」

くすくす、弁慶が笑うと、ヒノエも笑った。
弁慶は、懐かしそうに話し出す。

「――小さいころ来たときは、迷子にならないように、って
 両親と手をつないでたのに、
 いつのまにかひとりになってて…。」

弁慶は、ヒノエをそっと見上げた。
すっかり緊張が解けた様子で、ヒノエもほっとする。

「涙をこらえながら、イルカのショーを観てたんです…。
 そしたら、両親があわてて駆け寄ってきて、
 ぎゅって抱きしめてくれて…。」

「―怒られた?」

「いえ……ごめんね、って謝られてしまって…。
 謝るタイミングを失ってしまいました…。」

「ふふ、そっか…。
 大丈夫だよ、オレは手を離さないから。」

そんなつもりはなかったのに、やさしくほほえまれて。
手をぎゅっと握られて。
どきどきがおさまらなかった。



ほの暗い水族館内で、きらきら、魚たちが光ってる。
弁慶の淡い色の瞳にその光が宿るのを、ヒノエはまぶしそうに見つめた。

「あ、先生…、」

弁慶がくるり、振り返ると。
とん、と唇に人差し指を当てられる。
弁慶は、驚いて目を丸くした。

「今日はオレ、先生じゃないんだけどな。」

「で、でも…、」

「次、先生、って呼んだら、そうだな…、」

ヒノエが、にや、とたくらんだ顔で笑う。
弁慶は思わず身を引いた。

「…キス、しようかな?」

「え…?!」

かあ、と一気に頬が熱くなる。

「で、でも…なんて呼べば……。」

「ヒノエ、でいいよ?」

「だ、だめです…!
 呼び捨てなんて…できません……!」

「ふふ、じゃあ好きなだけ、先生、って呼んでいいよ?
 そのたびにキスするからさ。」

「……!」

口をぱくぱく動かすだけで、何も言えない。
すっかりうつむいてしまった弁慶の髪を、ヒノエはやさしく撫でた。

「…ゴメン、冗談だよ。
 今は、先生、でいいから。」

いつか、呼んでほしい。
とは言わなかった。
ホントは言いたかったけれど。
いつもどおりでいいよ、という言葉に、ほっとして弁慶は顔を上げた。

「―あ、あの…せんせ…イルカのショー、観たいです。」

ヒノエは、弁慶の手を引いて歩き出した。

「―ん、観に行こうか?」

「…はい。」

手を引かれながら、弁慶は少しだけ後悔していた。
いつも、先生はうれしい言葉をくれる。
それなのに。
自分は何ひとつ、先生のほしい言葉をあげてない。
呼んでしまえばよかった、と。

「―どうかした?
 ショー、始まるけど…。」

ヒノエに言われて、はっとして顔を上げた。
水しぶきがあがって、きらきら、光った。



ショーが終わって、時間は昼すぎ。
ふたりは、水族館の中のレストランに入った。
熱帯魚の水槽に囲まれている。
きらきら、宝石箱みたいに、弁慶の淡い色の瞳が光る。

「―ほんとうに、綺麗ですね。」

「ん。
 喜んでもらえてよかった。」

やわらかく微笑むヒノエの瞳も、きらり深い光を宿していて、
弁慶は思わずどきどきしてしまった。
かすかな沈黙の合間、ちょうど料理が運ばれてきて、
ほっとした。

「―いただきます。」

声が重なる。
目が合って、ふたり、少し微笑んだ。

「―この後、もう少し回ったら、外に出ようか。」

「はい。」

「ん。決まり、ね。」

先生の誕生日なのに、任せっぱなしでいいのかな。
と、弁慶は思ったけれど。
先生に喜んでもらえるようなことをできる自信もないから、
任せることにした。
会計を済ませるときも、結局ヒノエが払ってくれて、
弁慶は申し訳なさそうに俯いていた。
ヒノエとしては、誕生日に弁慶の1日をもらう約束でいたから、
それ以外はいらないのだけれど。
どうにも律儀で真面目な性格らしい。
ヒノエは心の中で少しだけ苦笑する。

「ほら、行こ?」

「…はい。」

優しく手が差し伸べられて、弁慶はためらいながらそっと手を取った。



くるり、水槽をまた一周して、おみやげコーナーに立ち寄る。
弁慶は、ぬいぐるみに目をとられているようだった。
でもすぐに、子どもっぽいかな、と考え込んでいるようで、目を伏せている。
その仕草に、ヒノエはくす、と笑った。

「―白イルカ、可愛いんじゃない?」

「―え?」

ヒノエの言葉に、弁慶が思わず振り返ると。
ヒノエは、白イルカのぬいぐるみを棚から取って、弁慶に手渡す。

「かわいい、です…。」

ふわふわ、やわらかいぬいぐるみに、弁慶が笑顔を見せると、
ヒノエはまた棚から他のぬいぐるみを取った。

「ペンギンもどうかな?」

「あ、はい…!」

ふたつのぬいぐるみを抱えて、弁慶が笑顔で見上げた。

「―どっちにしようかな…?」

弁慶はふたつをじーっと見て、なでたり、ぎゅっとしたりして悩んでいる。
ヒノエは、くす、と笑って、弁慶を覗き込む。

「どっちかしか、買わないの?」

「あ、はい……、」

本当は、ふたつとも欲しいんですけど、と言葉を濁した。
ひとり暮らししているから、お小遣いの使い道もいろいろと考えているらしい。

「ふたつとも、買ってあげようか?」

悩んでる姿は可愛いけれど。

「だ、だめです!
 ごはんだって、ご馳走になってるんですから…。」

それに、今日は、先生の誕生日でしょう?
弁慶は、頑なだ。
思わずヒノエは、苦笑した。
しばらくして、少し残念そうに白イルカのぬいぐるみを手から離して、
弁慶はそっと棚に戻した。

「………ペンギンにします…。」

名残惜しそうに、白イルカをなでて、ペンギンのぬいぐるみを抱え直す。

「じゃあ、オレ、白イルカ買おうかな。」

「え…?」

「保健室においておくよ。」

「で、でも…、」

先生はぬいぐるみなんて、いらないでしょう?
そう思ったけれど、ヒノエの笑顔に負けて口にはできなかった。
会計を済ませると、ヒノエが紙袋にまとめて持ってくれた。



外に出ると、随分と時間が経ってしまっていたらしい。
少し日が翳って、風が出ている。
寒い?と聞かれたけれど、つないだ手が温かかったから、
大丈夫です、と弁慶は答えた。

「少し電車で移動するよ。」

はい。
弁慶は、ただ頷いて、手を引かれたまま歩く。
どきどきするけれど、心地良い。



いくつか先の駅で降りると、迷うことなくヒノエは手を引く。
歩調は、弁慶に合わせてくれていて、ゆっくりめだ。
少し歩くと、大きなタワーが立っている。
近くには、観覧車もある。

「展望台があるから、行ってみよ?」

「はい…。」

弁慶は、ふわり、微笑んで頷いた。
展望台へは、直通のエレベーターがある。
外が見えるガラス張りのエレベーターに乗り込むと、
弁慶は無意識にヒノエの手にぎゅっと握った。

「…大丈夫?」

スピードも速いから、外を見るのが少しこわい。
弁慶は、目をつぶったまま、何度か頷いた。
ひゅん、と一瞬落ちるような感覚のあと、ドアが開いた。

「―ついたよ?」

目をつぶっていた弁慶に声をかけると、ゆったりと弁慶は目を開けた。

「は、はい…すみません…。」

なんで謝るの、とヒノエは苦笑したけれど、
それにも、すみません、と言われてしまって。
ヒノエは、また苦笑するしかないのだった。



日が暮れかけて。
地平線の端は、綺麗な茜色に染まっている。
都会の街並みは、徐々に明かりが灯り始めていて、
きらきら光っている。
さっきみた、熱帯魚の水槽みたいに、いろんな色がきらきら。
弁慶は、ほうっと息をついていた。

「キレイだろ?」

「はい…すごく…綺麗です…。」

ゆったりと目を細めて、見入っている。

「―先生は…、」

弁慶が小さな声で言うのに、耳を澄ませる。

「―うん?」

「綺麗なところを、たくさん知ってるんですね…。」

弁慶は見上げて、ふわり、と笑った。
ヒノエも、思わずどき、とする。

「先生の誕生日なのに、先生より楽しんでるなんて…、」

いけませんね。
弁慶がそう言いかけると、ヒノエは遮った。

「オレの誕生日だから、だよ?」

「え…?」

「オレの誕生日だから、藤原サンといっしょに過ごしたかったんだ。
 楽しんでくれて、笑顔を見せてくれれば、それでいい。」

「先生…。」

頬が、熱い。

「―藤原サンの1日をちょうだい、って言っただろ?
 それだけでいいんだ。」

ぎゅ、と腕の中に閉じ込められて、どきどきが止まらない。

「………、」

どうしていいのか、分からない。
うれしくて、どきどきして。
何と言えばいいのか、分からなくて。

「………ひのえ…。」

小さな小さな声で、ためらいながら。
初めて呼ばれた名前は、どこかあどけなくて、たまらなく愛しい。
ヒノエは、思わず弁慶の顔を覗き込んだ。
弁慶は、顔を伏せる。

「…うん、何?」

弁慶の表情が伺えない。

「……今日…は、せんせい、じゃないんでしょう……?
 だから、あの……、」

いちどだけ、呼んでみたんです。
声が震えている。
少しだけ、弁慶が目を上げると、ヒノエが微笑んでいた。
ひどく優しい目をして。

「……ありがと。」

もう一度、やさしく抱きしめられて。
ゆったりと離れる。
まだ、鼓動が騒いでいる。

「―もう、日が沈んだね。」

ヒノエが穏やかに言った。
熱い頬のまま、弁慶も窓の外を眺める。

「そう、ですね…。」

1日が終わってしまう。
そう考えると少し寂しかった。

「―夕飯、食べに行こ?」

「はい…。」

また、手を引かれて、歩き出す。
ヒノエが、嬉しそうに微笑んでいて。
先生の誕生日を、少しは祝えたのかな、と弁慶は思った。
嬉しかった。



展望台の隣に立つ、ショッピングビルのレストランに向かうと、
窓から、先ほどの展望台が見えた。
ライトアップされていて、とても綺麗だ。
弁慶が立ち止まって見とれていると、ヒノエも立ち止まった。

「…きれい……。」

そう言って穏やかに微笑む弁慶のほうが、よほどキレイだ、
なんてヒノエは思ったのだが、言わないでおいた。
きっと困ってしまうだろうから。
そんなことを考えていれば、弁慶がくるり、振り返る。
淡い色の髪がふわり揺れて、
外のイルミネーションを浴びてきらり光った。

「あ…すみません、行きますね。」

慌ててぺこり、頭を下げてくる。
それでまた、光が髪に宿る。
キレイだな、と思ってその姿を見つめていれば、
不安そうに弁慶が目を伏せた。

「―先生…?」

「や、ゴメン。
 行こ?」

「はい…。」

きらきら、綺麗なものばかり。
夜景の灯りが宿る弁慶の瞳が、きらきら光る。
やっぱりキレイだ、なんてヒノエはじっと見つめた。

「―先生…?」

「――キレイだね。」

にこ、と微笑んで言えば。
弁慶は、視線を窓の外にやって、はい、と頷いた。
そうじゃないんだけどな、と思ったけれど、
ヒノエはくすり、と笑っただけで、言わなかった。

「……帰りは、家まで送るからね?」

きょとん、と弁慶が目を丸くする。

「…できるだけ、いっしょにいたいからさ。」

かあ、と頬を赤くして、弁慶は小さく頷いた。
どうして、こんなにうれしいことばかり、言ってくれるのだろう。
食事中も、うれしくて、あったかい気持ちがいっぱいで。
なんだかよく覚えていない。



電車に揺られて、ふたりで帰る。
混みあった電車も、ヒノエが庇ってくれる。
大きく揺れても、ちゃんと支えてくれて。
弁慶は、どきどきしながら、ヒノエの腕の中におさまっていた。

「……大丈夫?」

降ってきた声に、弁慶は目を上げて、微笑んだ。

「大丈夫、です。」

本当はどきどきして、困ってしまうけれど。
そっと腕につかまっていると、かすかにヒノエの香水が香ってくる。
優しい香り。

(いい匂い……先生の香水、かな?)

自分なんて、香水のつけかたも分からないのに。
大人になったら分かるようになるのかな。

(今度、望美さんと朔さんに聞いてみようかな…。)

ふたりなら、知ってるかもしれない。
もっと、先生に近づきたい。
ひとり、弁慶はそんなことを考えていた。

「―あと少し、だね。」

ヒノエの声に、はっとして顔を上げて。
聞きなれた駅名がアナウンスされて、
ようやくどの辺りまで帰ってきたか気づいた。

「―次の駅で空くかな?」

次の駅で、特急の通過待ち。
少しでも、ふたりの時間をのばしてくれればいい。

「座れるよ。ほら…、」

ヒノエがそう言うけれど、弁慶は、そのまま立っていた。
視線が何かを追っている。
ヒノエは、その視線の先を探す。

「いいの?」

「はい…。」

弁慶の視線の先、空いていた席は、
おばあちゃんがやっと一息つけた顔をして座った。
ヒノエは、優しい子だな、と思って、そっと微笑む。

「―足は、疲れてない?」

弁慶は、にこ、と笑って確かに頷いた。

「大丈夫です。」

「そっか。」

特急が通り過ぎて、発車のベルが鳴る。
ドアが閉まって、また動き出した。
車内は空いて、数人が立っているだけだ。

「明後日は、在校生は登校日だったよね?」

入学式の会場準備で、在校生は登校することになっている。

「そうです。」

「じゃあ、逢えるね。」

「…はい…。」

弁慶が表情をほころばせた。

「入学式からもう1年、だよ。
 早いね。」

「そう、ですね…。」

「去年の、新入生代表挨拶、緊張してた?」

弁慶は、くす、と笑った。

「いえ……目が悪いから…人の顔も見えないですし…、」

見えたら緊張したでしょうけど。
そんな弁慶の言葉に、ヒノエも笑った。

「なるほど、ね…。」

そう話していると、次の停車駅のアナウンスが流れる。

「…次、ですね…。」

寂しいな、と思って、弁慶は目を伏せた。
けれど、ヒノエは。

「駅から歩いて、藤原サンのとこ行くのは、2回目かな。」

と、どこか楽しそうに笑っているので、弁慶もすぐに気を持ち直した。

「2回目…でしたか?」

「ん。去年も夏祭りのときに1回。
 ほかは車かバイクだから。
 今日もホントは車で出かけたかったんだけどね…。」

少し苦笑するヒノエに、首を傾げていると。
電車のスピードが緩まった。
ホームが見えてくる。

「ついたね。
 行こ。」

「はい。」

手を引かれて、ホームに降り立つ。
1回目を、覚えていないことを考えていて。
ふと、気づく。

(どきどきして、覚えてなかったんだ…。)

あのころ、だんだん先生を好きになっている自分に戸惑って。
これが恋なんだ、ってことにもなかなか気づけなかった。

(恋なんて、小説のなかのできごとだと思ってたのに…。)

急に黙ってしまった弁慶を、ヒノエは覗き込んだ。

「―どうしたの?」

びっくりして目を上げると、ヒノエが疲れた?と聞いてくる。

「いえ…。
 去年のことを思い出していて…。」

「そか。」

最初は、苦手だな、なんて思ってたこと。
それはきっとずっと言えないけれど。

「―来年も、こうやって祝ってくれたら、うれしいな。
 その次の年も、ずっと。」

ヒノエは、少しだけ照れくさそうに笑った。
弁慶は目を丸くしていた。

「来年も、その次の年も…?」

先生の誕生日にいっしょにいてもいいの?
そう思って、素朴に聞き返す。

「ダメ?」

「だめ、じゃないです…。」

つないだ手が熱くて、恥ずかしい。

「じゃあ、予約。」

ヒノエは、にこ、と笑った。

「藤原サンの誕生日も、予約していい?」

いっしょに過ごそ?
そう言われて、嬉しくて頷いた。



部屋の前に着いて、ぴたりと足が止まる。
もっと、もっと、1日が長ければいいのに。
そう思って。

「―着いちゃったね。」

ヒノエの声にも、残念そうな響きがあった。

「今日は、ホントにありがと。
 ――今までのなかで、いちばん楽しい誕生日、だったよ。」

うれしい言葉。
楽しんでいたのは、自分のほうなのに。

「そんな……。
 こちらこそ、綺麗なもの、たくさん見せてもらって…
 すごく楽しかったです…。」

ありがとうございました。
ぺこ、と深く頭を下げて、弁慶は微笑んだ。
ヒノエも微笑む。

「―最後にいっこだけ、お願いしてもいい?」

「…?
 何ですか?」

「…もう1回、ヒノエ、って呼んで欲しいな。
 ―ダメ、かな?」

目を覗き込まれて、言われたら。
弁慶は、困惑したあとで、小さく小さく頷いた。

「………ひ…のえ……。」

そう言い終えた後。
ヒノエは堪らずに抱きしめた。

「―せん、せ…?」

「…………すこしだけ…、」

このままでいさせて。
ヒノエがそう言って、弁慶は躊躇いながら身を任せた。
ほのかに香るヒノエの香水が、心地よくて、目を閉じる。
しばらくそうしていて、すっと温もりが離れる。

「……、」

弁慶がそっと目を上げると、視線がぶつかった。
目が離せない。
ゆっくり、ゆっくり、時間が流れていく。

「―ありがと…。」

ヒノエが柔らかく微笑んで、そうして。
ふわ、とふたりのくちびるが重なる。
2回目のキス。
頬が熱くなる。

「―おやすみ。
 明日、また、連絡するね。」

優しく髪を撫でられる。
すっかり赤くなった頬が見つかってしまわないか、
弁慶は、どきどきしながら頷いた。

「―おやすみなさい…。」

エレベーターに向かうヒノエを見送って、部屋に入った。



おふろに入って、寝支度を整えて、紙袋を開けた。
ぬいぐるみをベッドに座らせると、その横に転がって、
今日のことを思い出す。
なんて長くて短い1日だったんだろう。

(―先生……。)

写真なんて1枚も撮っていないのに、アルバムをめくるみたいに、
たくさん先生の姿が目に浮かぶ。

「………ひのえ……。」

ひとりでぽつり、呼んでみる名前。
先生、と呼ぶよりずっと、どきどきする。
けれど、いつかそう呼ぶ日がくるのかな。
いつか呼び慣れる日がくるのかな。



どきどきして、とても寝付けそうにないな、と思っていたのに、
いつの間にか、眠ってしまっていた。





―こうして、先生の誕生日をいっしょに過ごせるなんて、
 去年は思いもしなかった。
 来年も、その次も、ずっと、ずっと、いっしょにいられたらいいな。
 続いてく約束がうれしかった。